更新日: 2004/03/16




2004.3.10 (Wed)

たぶん先月のことだったと思う

ここ数年ばかりの間にいろいろと読んできた本の中に、ある種の共通した意味が描かれていたことに気がついてびっくりした。

いろいろな本というのは、その昔の、そして今にいたるまでの、日本の会社やサラリーマン、それからサラリーマン世帯のあ〜だこ〜だについて書かれたもので、ひょえ〜、自分が生まれる5年前ってこんな風だったの、とか、この頃に会社で働いていた人たちは毎日どんなことを感じながら仕事してたんだろう、なんてことを考えながら、その種の本を読んできた。

が、それって要するに自分の父親がその頃に何を思い、その経験を後でどんな具合に意味づけ、今になってどう振りかえっているのかを考えていたわけである。

ということに気がついて驚いたのだった。

そういう方向からながめてみると、今ここで私がその種の本を読んでいるのが何だか奇妙な因縁のように思えたり、あるいはそこに不思議な連帯感を覚えたりもしたんだけれど、しかしよくよく考えてみると、そうそう話はうまいこと収まるものではない。

この数年の間に気がつかなかったということは、これまで一度も父親の気持ちを理解しようとしたことがなかったからなのだ。ようやくそれに気づいたのは昨日のことである。

小学校の頃、父と二人で旅行に行ったことがある。

どういう経緯でそうなったのかはぜんぜん思い出すことができない。てか旅行自体の記憶がほとんどないのだ。フェリーの甲板にびゅうびゅう吹きつける風が冷たかったこと。夕暮れの海辺で釣りをしたこと。車で走る山道に気分が悪くなって吐いたこと。それが父との旅行のすべてである。

父はその間めったに口をきかず、だから二人で笑いあったりすることもなく、フェリーに乗り、降り、海辺に行き、宿に泊まり、山道を運転し、家に帰ってきた。きっと旅行をするのが嫌なのだろうと思った。

だから数年後、父がそれを「楽しかった旅行」として人に語るのを聞いた時、「あれでかよ?」とは思ったけれど、あの人にとって「楽しむ」ということがどういうことなのかをちゃんと考えようとはしなかった。

父と母がシンガポールに遊びに来た時もそうだった。

ペナン島に古くからあるリゾートホテルから帰ってくると、しみじみと心情を吐露する、なんてことの滅多にない父がリゾートホテルに泊まっていた多くの英国人を思い出しながら、「あの人たちは何もしないでいることを楽しんでいるんだなあ」と言うと、しかし間をおいて「そういうことは自分にはできない」と続けた。

何もしないことを楽しめる才能なら人に負けないと思っている私のことだから、「それは可哀想かも」とは思っても、じゃあどんなことを「楽しかった」こととして思いおこすんだろう、という方向で考えることはなかった。

定年退職して久しい父は、ここ2〜3年、山や寺や孫の野球大会で撮ったデジカメ写真を大きく引き伸ばしてプリントすると、それを誰もが目にする壁に貼っては「プロみたいだろう」と自慢し、そして満座の失笑を買うお決まりごとを「楽しんで」いるように見えた。

その父が数日前に食道癌で入院したことを母からの電話で知った。ずいぶん進行していたらしい。



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