2000.4.22 (Sat)
▼ これみよがし [words]
うんと昔、「これみよがし」というのはお菓子のことだと思っていた。
漢字で書くと「これみ夜菓子」(「これみ」はたぶん人の名前か土地の名前)。おそらく「これみよがしに〜する」という言葉を最初に聞いたのが、たまたま食べ物を見せびらかすシチュエーションだったからこんな連想が働いたんだと思う。
「これみ夜菓子」は平安時代(て言うか、江戸よりだいぶ前、くらいの意識しか持ってなかった)のお菓子なのだ。めったなことでは手に入らない。すごく高い。
だから、夜桜見物に繰り出した平安貴族の中で、「これみ夜菓子」を取り出してみんなに勧めたりできるのは、いちばん位の高い人。これがたいていの場合、とても性格が悪い。だから、しつこくしつこくみんなに「これみ夜菓子」を勧める。真っ白く塗った成田三樹夫が、気味の悪い笑顔で勧めるのだ。
ところが、「お、こりゃどうも(バクッ)」なんてことするとタイヘンなことになる。日の出を待たずして、京の街中に「事情に疎い田舎者」の噂が乱れ飛ぶ。もちろん真っ白く塗った成田三樹夫が、今度は笑顔抜きのアップでそいつを罵倒するカットが続く。
いや〜、一見みやびやかに見える平安貴族の夜桜見物の裏には、けっこうドロドロした駆け引きがうごめいているものなんですねえ。(すっかり「これみ夜菓子」が存在する前提)
なんてことを思い出したのは、先日、銀行でお金をおろした時に、前の人が「これみよがし」に置いていったと思われる残高控がATMの上に残っていたから。
引き出し額はぴったり100万円、預金残高が1千万円になってた。
裏にドロドロした駆け引きがあるのはヤだけど、やっぱ風流は欲しいよなあ。
2000.4.23 (Sun)
▼ あら〜、どうしちゃったのかしら? その1 [words]
疑問文を使って表現すべきではない現実というものがある。
例えば、JR立川駅のエレベータがガクンと止まって、どうしたんだろうと下の方を見ると、おじさんが気絶して倒れていた、という場合。前のめりじゃなくて、そのまんま後ろっ側に倒れているので、打ち所が悪かったりするとけっこうタイヘンなのだ。
だから、私の前に立っていたおばさんが発した呑気な疑問文はまことに「不適切」なのである。
ところが、その友人と思しきおばさんがまたしても疑問文を発する。
「誰か人を呼んだ方がいいんじゃないの?」
疑問を呈するヒマがあったら、すっ飛んで人を呼ぶべきなのである。
しかし、最初の疑問文おばさん曰く、
「あの女の子がケータイで人を呼んでるんじゃないの?」
「あの女の子」というのは、エレベーターのすぐ下にあるファースト・キッチンのバイトの子だ。倒れたおじさんのすぐ後ろにケータイを持って立っている。
けど、その子が人を呼ぶためにケータイで話してるかどうかわからないではないか。別に疑うわけじゃないけど、その前から友達と話をしていたら、目の前で人が倒れたもんだから、実況中継しているのかもしれないではないか。だいたい10メートルくらい離れた場所に立ってる女の子をアテにすべきではないのだ。
2000.4.24 (Mon)
▼ あら〜、どうしちゃったのかしら? その2 [words]
そういうわけで、「すっ飛び」はしなかったけど、急ぎ足で止まったエレベーターの階段を上り、JRの改札方面に向かった。
それにしても、こういう場合に呼ぶ「人」というのは、どんな「人」なのか全然検討の付かない私は、(後から考えてみると)「制服を着た男性」を探していた。これには後で驚いた(フェミニストに怒られそう)。
このシチュエーションで、ナニユエに「制服を着た」・「男性」を反射的に探してしまうのかをじっくりと考えてみると、「近代社会」がどう成り立っているかがはっきりと見えてくるような気がする。
しかし、もちろんそんなことをじっくり考える間もなく、「鉄道警察駐在所」の看板が目に入った。げっ、「鉄道警察」っていうのがあるんだ、と、これはちゃんとその時に思った。こうした事態に際してまことに不謹慎ではあるんだけど、「鉄道」と「警察」が合体したら、近代の二大スター夢の競演ではないか。
なんてことで驚喜してしまうのは、日頃読まされている本の祟りか?ひょっとして「鉄道警察」ってのはみんな知ってるもの?ふだん何してるんだろう?痴漢の検挙とか?
とにかく、その「駐在所」にいた「制服を着た男性」は、近代の二枚看板をしょってるという意識がみじんも感じられない素っ気なさで、ヒマそうに立ってる。
「エスカレーターのすぐ下で倒れてる人がいるんで来てください」と言っても、「酔っぱらいですか?」などと聞いてくる。こちらが「いや、気絶して倒れたみたいなんです」と答えると、驚ろくべきことに「どうかされたんですか?」という呑気なおばさん構文を投げ返されてしまった。
どうかされたから気絶して倒れたに決まっておるではないか。
人を呼ぶには疑問の余地のない現実でも、呼ばれる人を動機付けるには十分ではない。と、いう場合は、どんな具合に説明すればいいんだろう?さんざっぱらおばさん疑問文の揚げ足を取ってる手前、いまさら「さあ〜、どうしちゃったんでしょう?」と言うわけにもいかないし...
2000.4.25 (Tue)
▼ カン・ジェギ「シュリ」 その1 [cinema]
韓国映画「シュリ」はとてもチーズバーガーな映画だ。「チーズバーガーな」映画というのは、観る前に想像した映画の内容と、実際に観る映画との間にほとんどギャップがない映画のことである。と、勝手に決め付ける。
ある種の映画は、3分から3分毎に小規模の盛り上がりがあって、だいたい15分から20分毎に何かが爆発して、上映開始後70分から80分あたりで主人公の男女の間に愛が芽生える(またはとっても危うくなる)一方、状況はますます切迫、というパターンでくるんじゃないかなあ、と思って映画を観るとまるっきりその通りにストーリーが展開してしまい、思わず経過時間を腕時計で確認してしまう。これが「チーズバーガーな」映画のパターン。
「お、チーズバーガーが食いたいぞ」と思った時は、たいていの場合、食べたいチーズバーガーの映像がはっきりくっきり脳裏に浮かんでいて、オーダーして出てきたチーズバーガーを見ると、まあだいたい想像した通りのもので、食べてみても、ほぼ想像通りの味がする。「あの店でチーズバーガー頼んでみたら、なんとコルドン・ブルーを間に挟んだやつが出てきて驚いた」なんてことは絶対にない。
だったらチーズバーガーな映画でなくても、「大盛り牛丼な」映画とか、「ドネル・ケバブな」映画、シンガポールなら「ビーフヌードルな」映画って言っても構わないではないかと反論もできるけど、そうそう細かく分けるのも面倒くさいし、第一、英仏合作の場合はどうするか(「フィッシュ・アンド・バゲットな」映画?)などなど悩みは尽きない。
そんなわけで、「シュリ」はチーズバーガーな映画である。
映画を観る前から、これはリュック・ベッソンの「あれ」だなと思ったら、案の定そうだったし、スタジアムを舞台に繰り広げられるサスペンスって、ひょっとするとショーン・コネリーとニコラス・ケイジの「あれ」ではなかろうかと思ったら、はたしてその通りである。銃撃戦の撮り方が思いっきりジョン・ウーしてるとは予想してなかったけど、ぜんぜん意外じゃない。
だから、「韓国映画はハリウッドを超えた」という謳い文句は、実のところ順番が逆さまで、「世界中がハリウッドになった(ことの証明・韓国バージョン)」と言うのが正しい。
2000.4.26 (Wed)
▼ カン・ジェギ「シュリ」 その2 [cinema]
それはそれとして、この映画で面白かったのは「痛み」と「我慢」の関係。どんな肉体的苦痛が描かれ、それを我慢することがどんな意味を持つか、というところにお国柄が出るのだ。
「痛み」とその「我慢」、と言うとどこの国・文化でも同じことだ思ってしまいそうだけど、それは大きな間違い。映画に描かれるのをよくよく観てみると、ちゃんと「お国柄」が浮かび上がってくる。
高倉健や「おしん」が我慢するのは、寒さとか孤独に類する苦痛で、これを「黙々と」耐えることが日本の美学。中国の「さらばわが愛」で京劇スターへの道を夢見る少年が我慢しないといけない苦痛は、それよりもっと直接的でもっと激しい。観ていてこっちが痛くなる。それがアメリカの映画になると、苦痛は苦痛で我慢するんだけど、問題はそれがどれだけ良い結果が生んだか、である。
そんなつもりで「シュリ」を眺めてみると、冒頭の過酷かつバイオレントな北朝鮮の軍事訓練のシーンの中に、「苦痛をこらえる女兵士」の顔がぜんぜん描かれていないことに驚いてしまう。
つまり、我慢は評価項目に入っていない。前進あるのみ。けっこうキビシイぞ、これは。
もちろん、そうした「お国柄」の違いがあっても、「チーズバーガーな」映画であることに変わりはない。フランスのマックではビールを売ってるし、シンガポールのマックにはチリソースが常備してある。インドのマックの「バーガー」は豆で出来ている。