更新日: 2003/10/09




2000.5.3 (Wed)

クラゲはいかにしてお盆を知るか? その1 [words]

北は北海道から南は沖縄まで、お盆の時期になるとみんな「お盆になるとクラゲが出る」と言う。

これ、本当。大学の頃、いろんな地方出身者に会うたびに片っ端から「お盆になるとクラゲが出るって言う?」って尋ねてみたら、本当にみんなそう言ってた。

でもこれはヘンだ。気温(海水温度)や潮流、あるいはプランクトンの発生その他もろもろの要因が日本全国一斉に変わるわけがない。桜前線だって最南端から最北端に移動するのに一月以上かかるというのに、クラゲだけが示し合わせて全国一斉ロードショーを敢行するのはおかしい。

仮に日本全国のクラゲがいつかどこかで一堂に会して、「では、今年もお盆の時期に一斉に出没しましょう」と打ち合わせたとしても、それから何日だか何ヶ月だか経った後に、日本各地に散らばったそれぞれのクラゲはどうやって今日がお盆であることを知るのだろう?

が、そんなことに頭を悩ますほど世間の人は暇じゃない。かれこれ十数年、毎年お盆になるときまってクラゲの謎に頭を悩ます私に向かって、まわりの人は「だいたいそういうものなんじゃないの?(ぜんぜん答えになってない)」とか、「別にぴったりお盆の時期じゃなかったらどうだっていうの?(この切り返しはけっこうツライ)」とか、「それんなこと考えて何が面白いんだ?(オブセッションというのは面白い面白くないとは違う次元に属するのだ)」などなど、とっても冷たい。

と、お盆吉例のクラゲ話を思い出したのは、ついこの間見たニュースで、魚ロボットと共にクラゲロボットがフィーチャーされていたから。太陽光で半永久的に動き続けるクラゲロボットは、画面で見る限り、ちゃんとクラゲっぽくヒラヒラ〜っと水の中を動いている。

このクラゲロボット、お盆になると行動パターンを変えるんだろうか?



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2000.5.4 (Thu)

クラゲはいかにしてお盆を知るか? その2 [words]

ところが、毎年恒例のこの問題があっさりと解決してしまった。って言うか、ある日突然、「解答」らしきものがひらめいたのだ。

今年の二月末から三月にかけて、五日間ほどシンガポールに行ってきた。九十四年の二月から九十七年の七月まで、三年半ほど暮らしたシンガポールを三年ぶりに訪れたこの旅行は、いろんな意味でとても思い出深いものだった。

で、それ以来、折にふれてはシンガポールに暮らしていた頃のことが「ジェイコブズ・ラダー」風フラッシュバックで頭をよぎるようになった。

特に多いのが電車の中。吊革につかまってぼや〜っと外を眺めたり、椅子に座ってうとうとしかけた頃に、傘を持たずに外出した帰りにスコールに遭って、ダークグレーのスーツが出し昆布状態になってしまったことや、静かで冷房の効いたチャンギ空港のロビーで、ガリガリ勉強してるシンガポールの学生の姿なんかが唐突に頭に浮かぶようになった。

そんな時にハングリーゴーストのことを思い出した。日本のお盆に相当する時期、シンガポール(というか中国系文化圏)では、ハングリーゴースト・フェスティバルというのをやる。

日本語でも「餓鬼」と訳されるハングリーゴーストは、年に一度、お盆の時期に冥途から舞い戻ってくる祖先の霊のこと。みんなお腹を空かせているので、下界の我々は豚の丸焼きをはじめとする色とりどりの供物を備え、巨大な線香を焚き、お金を模したお札を焼いて、これらゴーストたちの機嫌を損なわないようにしないといけない。

この時期になると、やらないといけないことと、やってはいけないことがいっぱい出てくるわけだけど、その「やってはいけない」リストの中に水泳が入っている。海、川、プールを問わず、この時期に泳ぐと、ハングリーゴーストに足を引っ張られるのだ。

実際、この時期になると、普段はまるっきり問題なく泳げるはずの子供がプールで「不可解な溺死」を遂げたというニュースが新聞の紙面を飾る(三年半の滞在中、毎年この類の記事が載ってた)。

そういうワケか。と、日本で電車に乗ってる私は考える。別にクラゲである必要はないのだ。「お盆→泳いではいけない」のハングリーゴースト精神の真ん中に、「クラゲが出るから」という一見もっともらしい理由が入っただけなのである。だから、説得力があるかどうかはともかく、基本的な趣旨から言えば、お盆に出るのがサメであっても白鯨であっても構わないということになる。

なるほどねえ。長年の疑問から解き放たれて、新たなミレニアムのお盆を迎えることができるというのは、なんとすがすがしいことであろうか。すっかりこれが解答であると信じて疑わない私。(もともと「そんなこと考えて何がどうなんだ」な問題だから、「それが本当に正しいのか」的配慮なんかは要らないのだ。)

しかし、「お盆→泳いではいけない」の間にクラゲが入るようになったのは一体いつからなんだろう?



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2000.5.9 (Tue)

土地の神話 [words]

村上龍がメールマガジンの読者と一緒になって、「バブルはなぜ起きたか?」を考えていく、という番組をNHKでやってた。

「バブル経済」は、欲に目がくらんだ銀行員が土地投機に走ったことが大きな原因だと考えられているけど、むしろ、銀行員は欲に目がくらんだどころではなく、むしろ欲張らず、「堅実に、まじめに」働いていたからこそ、バブルが起きたんじゃないか、というのが暫定的な結論。

もっと欲張って、儲かりそうな投資をじっくり選んでいれば、あれだけの資金を土地に投じることはなかった。でも、みんなまじめ一本槍だから、ひたすら「土地の神話」を信じて行動した。

てな調子のナレーションが入る。

でも、400年単位でモノを捉える「インド哲学」に触れた私としては、ぜんぜんこの説明にナットクできない。そもそも1980年代に「土地価格は上がり続ける」という「神話」ができちゃってるのはすごくヘンである。

私有財産として土地に値段が付くようになったこの100年の間には、関東大震災があって、世界恐慌もあって、第二次大戦も起きてるわけだから、その度に土地の値段は大きくでんぐり返っているはずだ。この間を正確に反映した「神話」が出来上がるとすれば、「土地の値段ほどアテにならないものはない」でないといけない。

だから「土地の神話」と呼ばれているものは、太古の昔に創造されたものがいまだにレンメンと続いている、ということではない。将来の土地の値段を考える場合は(何の根拠もなしに)第二次大戦を出発点とする、そして、それ以前はまったく考慮しない、というとても理不尽な「信仰」に近いものに見える。

「堅実」で、「まじめ」であるということは、実のところ、こうした無根拠な信念を一斉に抱くことのできる能力を指していると思う。でも、「せ〜のっ!」で一斉に何かが変わるという状況は偶然に生まれるものじゃない。かと言って、「おまえが悪いっ!」と指させる人がいるわけでもない。

英仏独の最近100年を見てると、こんな風に人の考え方が一斉に変わる状況がいっぱい生まれてきてる。ということを禿頭のフランスの学者が言ってる。で、そうした事態は第二次大戦後の日本にも当てはまるのである。

というような結論が、品質管理サークルの研究からアッという間に導き出せたら、担当教授の影におびえる日々も「神話」として人に語れるんだろうけど...(^_^;)



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2000.5.10 (Wed)

リュック・ベッソン「ジャンヌ・ダルク」 [cinema]

シンガポールで3月に観たリュック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」もチーズバーガーな映画だ。でも、「シュリ」と違っているのは、最初からそうするつもりで作られたんじゃないフシがあること。

けっこう手間をかけたジャーマンステーキに微妙な味のチーズをのせようとしていると、「パンにはさんで食うんだぜ。もっとケチャップが要るだろう」と言って、ドド〜ッとケチャップかけ出す奴がいて、「あれ〜っ」と叫ぶベッソン監督、という図が目に浮かぶ。

この映画の最初のもくろみは、ジャンヌ・ダルクが得た「神からの啓示」が、単なる精神錯乱だったかも知れなくて、でも、本当のところはよく分からない...という「微妙な味」を出したかったんだと思う。でも、はっきりした味にしたい人たちが寄ってたかって、ドド〜ッとケチャップをかけてしまったのではないか、と勘ぐる私。

ケチャップに相当するのはダスティン・ホフマン。この映画を観てると、本当はこんなところにダスティン・ホフマンを出す予定なんか全然なかったんじゃないかと思う。

ジャンヌ・ダルクに啓示を与える少年の映像は映画の中で最も重要なモティーフの一つで、やがてエル・グレコが描くキリストそっくなイメージに変貌する。ところが、処刑を前にしたジャンヌ・ダルクの前に現れる段になると、このグレコ系キリストの顔が、どこをどう見てもぜんぜん似てない顔したダスティン・ホフマン化してしまうのだ。

この変貌に唖然としたのは私だけではなくて、最初はジャンヌ・ダルクだって気が付かない。しょうがないからダスティン・ホフマンも「この顔だったら分かる?」とか言いながら、マジシャンよろしく少年顔にしたり、グレコ顔にしてみせたりする。

で、彼はジャンヌが「啓示」として受け止めたものが、自分が抱いていた無意識の願望だった(に違いない)ということをやたらと丁寧にジャンヌに説明しはじめる。あげくの果てに、少女の時点にカットバックして、野原に落ちていた剣は、そこいらを歩いていた男が何気に捨てた可能性だってあるだろう、なんていう恐ろしく散文的なカットまで挿入される始末。

ダスティン・ホフマンはミラ・ジョボビッチ以外の役者と絡むこともないし、撮られる時はいつもアップ。群衆の中にいるところをカメラが引いて撮る、なんてこともない。

だから、ダスティン・ホフマンのカットはみんな「後付け」なんじゃないかと思う。公開前のスクリーニングの結果が良くなくて、「で、結局どっちなのよ?」などという意見がいっぱい出てきたから、急遽ダスティン・ホフマンを説明役に起用して、ケチャップ・フレーバーをたっぷり効かせた。

という舞台裏を勝手に想像しながら観ると楽しいかも知れない。でも、「そんな余計なこと考えたくない」という場合は、ダスティン・ホフマンが出てきた時点で映画が終わったことにして、ビデオをストップさせるという手もある。



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