2003.10.2 (Thu)
▼ 9月の末に [etc]
牛津村に引っ越してきてから1年になることから、これを機にホームページをドカンと変えるべく画策していたのだが、「テーブルなしに CSS で段組?」とか、「正規表現って何よ?」とかやっているうちに10月も2日になっているではないか。
もちろんこの間には、とりあえず来年1年分の概略行動予定がほぼ決まり、このフラットに来春まで住み続けられることになり、夏になった仕事のお金が近日中に振りこまれることになってホッとひと息、なんてこともあったわけだけど、基本的には昨日も今日も明日も同じように過ぎていく毎日にあって、ここ10日ばかりの間に起きたいちばん大きな変化は猫のキャサリンである。
数日前から3階にあるフラットの玄関先までやってきて「ニャ〜」と鳴くようになったかと思うと、部屋で遊ぶ時間が長くなってきた。それにつれて、はじめは「よその家」的遠慮を見せながら部屋を徘徊していたキャサリンの足どりに「わが家」めいたドッシリ感が加わってくる。
もちろんドッシリ感は歩いている時だけの話じゃない。
キッチンの脇の椅子に上がり、その狭い範囲の中で落っこちないようにうまいこと体を加減しながら、少しばかり仰向けぎみに体を丸め、寝るともなくボンヤリとした目でリラックスしているところなど、これが最初は自分から椅子に上がろうともしなかった猫だとはとうてい思えない。
ベッドにも上がろうとしなかったのが、今ではひとしきり遊んだ後は「何か用があったら呼んでね」的にベッドルームに直行し、布団の対角線が交わるあたりにしっかりと体を横たえる。
それでも当初はこちらがベッドルームに入っていくと、「何でしょうか?」てな様子で居ずまいを正していたのだが、いまや寝ころんだまま面倒くさそうにこちらを眺めやるばかりなのだ。
昨日も今日もここに「お泊り」したキャサリンは、なにしろ昼間っから1時間おきに寝ているから、明け方はむやみに元気がよくて、こちらが死んだように寝ている脇でベッドの縁を爪でバリバリやったり、遊んでほしそうにニャ〜ニャ〜鳴きながらベッドのまわりを歩いたりする。
かくして私は熟睡をさまたげられ、目覚めればすでに陽は高く(曇ってることの方が多いけど)、いつも以上にボンヤリとした頭でもって「テーブルなしに CSS で段組?」とか、「正規表現って何よ?」などとやりはじめるのだから、ホームページのリニューアルはまだまだ先の話なのですね。
2003.10.6 (Mon)
▼ 煙草を手で巻くようになってから [etc]
「ボケ防止こんぺいとう」を使わなくなった。
ちゃんとした商品名が付いていたように思うけど、ようするに「ボケ防止こんぺいとう」というのは直径2センチの球に、最大1センチくらいのいろいろな長さの突起を付けたゴムの物体である。
淡いブルーのやつとグリーンのやつが2つでワンセットの「ボケ防止こんぺいとう」は、クルミを転がす要領で手のひらに転がせば、いい具合にゴムの突起が末梢神経を刺激してボケを防止するのだそうで、1年前に牛津村に移り住むにあたり、私の先行きを案じた友人2人から餞別にもらったものなのだ。
爾来、坂本龍一のボサノバアルバム(近頃では Cerys Matthews の Cockahoop)を聴きながら、これを左手に転がしつつ煙草を吸い、ポットのお湯が沸くのを待ち、珈琲をいれ、右手に持ちかえてから左の手でカップから珈琲を飲むのが朝の日課になっていた。
が、煙草を手で巻いて吸うということは、朝の日課の最初のステップで、葉っぱを紙の上に敷き、こよりを作る具合に両手で紙を巻いてから、ゆるまないように両手の親指と人差し指で巻いた煙草が保持つつ、舌の先で紙の端についたノリを湿らせてから煙草を仕上げる、てな一連の作業をやることになるわけで、これで十分に末梢神経が刺激されるはずで、おまけに両手がふさがってしまう。
そういうわけで朝の「ボケ防止こんぺいとう」はヤメ。
かくして「ボケ防止こんぺいとう」はその役割を終えたかに見えたのだけど、猫のキャサリンが頻繁にやってくるようになると「キャサリン時間かせぎツール」としての機能を果たすようになった。これを床に放れば長短の突起が球を不規則に転がすから、サッカー少年よろしくキャサリンが勝手に遊んでくれるのだ。
が、ここ2〜3日はキャサリンがフラットを訪れていない。
「ボケ防止」あるいは「時間かせぎ」な働きを持っていたゴムの物体は、いまやキッチンの端に置かれた単なるオブジェと化してしまった。
ガラスが
すきとほるのは
それはガラスの性質であって
ガラスの働きではないが
性質がそのまま働きに成ってゐるのは
素晴らしいことだ
(高見順「ガラス」)
性質に見合った働きを成しえないでいる物体は、たしかにもの哀しげに見える。
2003.10.7 (Tue)
▼ 天候のあいさつは [words]
政治や宗教が絡んでこないから、共通の話題としてもってこいだという話がある。
これはウソだ。
てか、少なくとも牛津村ではそれだけが理由ではない。たしかに誰もが天気の話をよくするし、政治も宗教も絡まないから剣呑な雰囲気を心配することなく好き放題に悪態がつける。
しかし、これがたとえばシンガポールだったら雨季をのぞいてほぼ同じ天気&気温が1年中つづくわけで、
「やあ、今日も暑いねえ」
「ホントに昨日と同じだねえ」
「やっぱり明日もこうなのかねえ」
「そりゃ、まあ、そうだろう」
てな会話を毎日、あるいは日に何度も繰り返して飽きない人というのは、よほど辛抱強い人か、そうでなければ小津安二郎を心底好きな人ぐらいだろう。
天候のあいさつが、いつでも話を切り出せるレパートリーとして十分に機能するためには、それがコロコロ変わる必要があるのだ。
朝方は世界が生まれかわったかと思えるほどの晴れ間が広がっていたんだけど、昼前にはどよんと煤けた雲があらわれて、昼飯を食う頃には雲が空いっぱいに広がった。が、わずかなその隙間から差し込む陽の光は白くまばゆく輝いていて、何十匹ものキツネが「せ〜のっ」でまとめて嫁入りする寸前、てな風情をかもし出している。
が、午後の2時をまわるあたりで雨が降りだすと、強風に流された大きな雨粒が窓をバシバシ叩くほどの勢いになって、目の前の草っぱらに生える木立がぶるんぶるん震え、フラットの屋上のアンテナから無線LANで結ばれたネット接続がとだえた。このとき窓辺で煙草を吸っていた私は映画「マディソン郡の橋」のクライマックスで、びしょ濡れのかなり情けない風体で交差点に立ちつくすクリント・イーストウッドの気持ちがちょっとだけ分ったような気がした。
でも雨足は30分ほどで弱まり、いつもの「おだやかな」曇り空にもどる頃には風も木の葉を揺らす程度におさまって、日が暮れかかるあたりになると、昨日と変わらない、そしてたぶん明日もこうだと思わせる冷気が風のない闇の中からじわじわと沸き出してくる。
でかける前なら洋服や靴がいたむ可能性に思いをめぐらせ、出かけてしまった後では、一旦緩急あった場合の雨宿り先(それがカフェであるのかレストランであるのかによって所持金の減損の具合が変わってくる)の算段が必要になる。万が一、雨の不意打ちをくらうことになれば、濡れた服や靴やカバンの他に、自分の見た目の価値下落にも神経をとがらせないといけない。
雨風をともなう天候の急激な変化は、政治や宗教の枠を超え、具体的な損得レベルでの結束をもたらす weapons of mass detraction なのだ。
2003.10.10 (Fri)
▼ はてなアンテナ というのは [etc]
定期的にチェックしたサイトの更新情報をウェブページの形に出力してくれるという便利なサービスだ。
で、このサービスではヘッダーとフッター、それにスタイルシートをカスタマイズすることもできる。というのを思い出したから、改装後の体裁に合わせた「はてなアンテナ」ページを作ろうというわけで、その昔にときどき訪れていた(今使っている PC にはブックマークしてない)サイトのことを思い出そうとしてみた。
「高校」+「マネージャー」+「おかっぱ」なんて具合に最初にパッと浮かんだキーワードだけで検索しても、すかさず「斉藤」をヒットできたりするのは自分だけのデータを相手にしているからで、同じことをグーグルでやったら2003年10月10日時点で107件ものページが出てきてしまう。
ので、たとえば「映画」の「感想」を書いた「サイト」、くらいのキーワードでは駄目で、そこには「映画館主」だか「館主」という言葉が使われていたはず、ということでリターンしないと、うまいことヒットしない。え〜っと、あれは「海外」で「日本」がどんな風に「紹介」されてるかを書いた「サイト」だったよな、と、ここでリターンしても全然それらしきページにたどり着かないから、う〜んと、「アレック・ギネス」が「ヘン」な「日本語」をしゃべる映画のことが書いてあったぞ、とかやってみると、いきなりトップに躍り出たりする。
と、そう書いてしまうと、めざすサイトにわりかし簡単にたどり着いたような印象を与えるけど、「たどり着かないから」と「う〜んと」の間の読点は、試行錯誤に埋めつくされた約2時間を表現していたりするわけで、これは抜本的に方針を変える必要がある。
というわけで、そのサイトに特徴的な言葉が何だったのかと考えるんじゃなくて、そこにリンクしていそうなサイトを探りあてるためにはどんなキーワードが必要なのかを検討することにした。
だから、「リンク」あるいは「リンク集」であって、「映画」の「批評」、それも「表層」文化論的視点からのやつ、てな調子で探りを入れると、1年ほど前に、これとまったく同じ思考プロセスでもってたどり着いたリンク集を再発見したりする。毎週日曜日の夕方に「げ、今日はスーパーが早く閉まるんだった」と思った後で、これ、先週もやったよなあ、てなことに気づくのとまったく同じパターンなのだ。
何事にせよ、あるべきスタート地点のずいぶん手前からはじめて、そうとは知らずに同じことを繰り返しているような気がする。