更新日: 2003/11/09




2003.10.12 (Sun)

マニフェストをめぐって [words]

いろんな政党がなんだかんだ言っている。

読売新聞ウェブサイトに掲載された記事によると、民主党は11月の衆院選の公約を通常のものより“重い”ものと位置づけ、これをマニフェストと呼ぶことを主張する一方で、自民党は「横文字では分かりにくい」という理由で従来の政権公約で統一するのだそうだ。

公明党はマニフェストを使いながらも、その訳語には政策綱領を使い、共産党は政権奪取のいかんに関わらず「野党でもこうやる」という方針を表明するものだからマニフェストは使わないとのこと。

もともとラテン語(だよな)で「手でさわれる」くらいにハッキリとした形に示すことを意味するマニフェストという言葉は、イタリアでは普通に政権公約の意味で使われているらしい。

が、妖怪談の登場人物が結束して姿をあらわしますぞと宣言したり、打算による思考をぶっ壊しますぞと意気込んだり、はたまた「ゴーマンかましてよかですか?」と居直ったりする場合に使われるこの外来語から響いてくるのは、「こうしますよ」的ハッキリ感よりも、むしろ「こうであらねばならぬ」な意志であって、その結果「それ以外はダメなのだ」チックな非難のニュアンスを伴ってくる。

小泉首相の「公約は大したことない」という発言に異を唱え、「政権を取れば必ずやる約束事」をハッキリさせねばならぬ、そうしないのはダメなのだ、と主張する民主党の菅代表は、だから「マニフェスト」のマニフェストをやっているわけで、そうなると自民党側の言い分は「非マニフェスト・マニフェスト」なのである。で、公明党は「脱マニフェスト・マニフェスト」を掲げ、共産党は「反マニフェスト・マニフェスト」を標榜しているわけだ。

文化人類学者のジョイ・ヘンドリーは、「包む文化 (Wrapping Culture)」 (amazon.co.uk) という著書の中で、日本社会の特質をその「文化的ラッピング」に見出している。

何かを言ったりやったりする場合、詰まるところ何を言う(やる)かというメッセージの「核」と同じくらいに、時にはそれ以上の比重でもって、そのメッセージをどのように伝えるのか − 敬語の使い方やしゃべり方のトーン、身ぶりに手ぶりに、着る洋服から、相手との間で物理的・時間的な距離をどう取るかなどなど、いろんな形でメッセージの核を包みこむ「文化的ラッピング」 − が重要な役割を持ってくる。

だから日本の社会で、ある言葉や行為が全体としてどんな風に受け取られているのかを把握するためには、そうした「文化的ラッピング」を引っぱがして「何を」の部分だけを考えてみてもしょうがないのだ。

と、ヘンドリーさんは主張する。

公職選挙法が改正されて、ばんばんマニフェストを配布できるようになったら、こんどはマニフェスト印刷用紙に関するマニフェストや、マニフェスト配布用封筒デザインに関するマニフェストがぶち上げられ、それに対して各党が非・脱・反なマニフェストを提唱し、政治的でも生産的でもないとすれば、少なくとも文化的には興味ぶかい「論戦」がくり広げられることになるのだろう。



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2003.10.13 (Mon)

ウィンドウズの PC は [etc]

「何を」やるかを極めた機械だと思っていて、「どうやるのか」な観点からの楽しみはまったく求めていなかったから、このところよく使っている VAIO (妹からせしめたのだ)にオマケで入っているソフトにどんなものがあるかなんて全然知らなかった。

が、[すべてのプログラム]をクリックするとグア〜っと並んでしまうソフトを整理しようと思って、VisualFlow なるアプリを起動したところ、これがメタメタ面白い。

VisualFlow というのはフォルダやファイルを閲覧するソフトなんだけど、その名前が示す通り、単にリストやアイコンで中身を羅列するんじゃなくて、真っ暗な水面に浮かび上がってくるような調子でフォルダやファイルのアイコン(画像ファイルの場合はサムネイル)を表示する。

で、デジカメで撮った写真を入れたフォルダを開いてみると、いっぱい撮った写真のサムネイルがもあ〜っとウィンドウ内に集まってきて、それが互いに繋がり合い、らせん階段を下向きに作るような按排でもって立体的なリストが出来上がっていく。

写真の1枚をクリックすると、そのサムネイルが赤く縁取られ、リターンすれば拡大表示される。←→キーで、左右のファイルに移動し、らせんの輪の1個上(または下)に移動する時は↑↓キーを叩く。

右の写真に移動するといっても、単に右の写真が表示されるというのでなくて、らせんの全体がもあ〜んと回転して右側の写真を手前に持ってくるという仕掛けになっていて、だからこれまで手前に大きく表示されていた画像が小さくなり、画面の向こう側に見えた小さな画像がぐい〜んと拡大される。

立体的ならせん状に配置された何十枚もの写真がグルリと回転し、同時に表示される画像の大きさが変わるのだから、これはデジカメの写真を閲覧しているというよりは、アレキサンダー・カルダーがデジカメ写真で作ったモビールが風に揺れるのを見ているようだ。

各党の政権公約(でもマニフェストでも政策綱領でも「野党でもこうやる」でもいいけど)は Adobe の After Effects を使って映画「KILL BILL」予告編日本語バージョンの冒頭みたいなものを作ること、てな条項を公職選挙法に盛りこんだら面白いのに。



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2003.10.14 (Tue)

「ジャイカな」人 [etc]

というのは、ある国(国々)なり、そこの人や文化、あるいはそれに関わる活動に対して打算を超えた思い入れを抱いている人を指す。

と私は勝手に決めている。

打算を超えた思い入れというのは顕示欲とは異なるから、ジャイカな人は、わざわざ自分からそれを切り出すことはない。でも、たとえば何かそれに関わる質問を受けると、まずは質問の答えを懇切丁寧に語り出し、話しているうちに「あ、そういえばこれも」とか「直接関係ないけどあれも」なんて具合に話題が広がって、枝葉が増えるにつれて話のボルテージがぐんぐん上がってくる。

しかし聞き手が同じくらいの思い入れを共有しているとはかぎらない、というかそういうことの方が稀だったりするので、ジャイカな人のボルテージの高まりは往々にして聞き手を置いてけぼりにして突っ走ることがある。そういう時はちょっと疲れたり呆れたりすることもあるけれど、少なくともそこに偽りがないことはハッキリと伝わってくるのがいい。

クレア・ショートはジャイカな人だった。

1997年、トニー・ブレアによる18年ぶりの労働党政権誕生と共に、海外開発庁から格上げされた国際開発省の大臣として、クレア・ショートは「より貧しい国に対する貧困解消」のための援助に尽力してきた。

2001年、米国がアフガンでの支援努力を妨げていると非難(米国が供与する食糧バッグの「中身はジャムとクラッカーとピーナッツバターだけだ」)。今年2月には、国連決議のないイラク攻撃に反対し、いったんは辞意を表明したけど「イラク復興には君が必要だ」との説得で内閣に留まる。が、その3か月後には、やっぱり「約束が違うではないか」と大臣を辞職している。

「イラクと国連」と題する彼女の講演そのものは取り立てて面白いものではなかったけど、質問に答える段になると、それまでの比較的フラットな講演口調がいきなり「ジャイカな人」なトーンに変わった。

いろんな問題がありながらも、国連(それは終始「We」で語られる)にしかできないことがあって、実際に国連のいろいろな機関がすばらしい仕事をしていると主張するクレア・ショートは、娘を語る父のように晴れやかで、息子を自慢する母みたいな情熱にあふれている。

だから国連との絡みで米国を語れば、娘の彼氏に初めて会った父親のように険しい顔で、息子の結婚相手を愚痴る母親のような不快感をあらわにするのだ。

今日の話を聞くかぎりでは、ブレアとブッシュがいなくなり、常任理事会を抜本改革した国連が主導権を握り、イラク国民の民意を尊重した復興計画を軌道に乗せるというベストシナリオを思い描いているらしいクレア・ショートは、過去にこんな名言を吐いている。

私たち女性はたいてい男性が好きである。それはそれでいいけれど、がっかりすることが多すぎるのが問題なのだ。


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2003.10.15 (Wed)

ハラダさんは [etc]

幼稚園の芋ほり大会を思い出すと、いまだにコンチキショーな気分になるそうだ。

誰よりも頑張ってばりばり芋をほったハラダさんが、たいそう褒められる自分の姿を思い描いていたところ、センセイは「は〜い、みなさんよく頑張りましたねえ」と全員がほった芋を1か所に集めると、これをみんなに均等に分けたらしいのである。

ハラダさんの「もう、アッタマきた」は現在形だった。

この芋ほり大会がハラダさんのその後の人生にどんな影響を与えることになったのかは定かでないけど、頑張った人もそうでない人も、まあ、みんなで仲良くやりましょうよ的な平等思想は、他の国の人の目に特異に映るらしい。その昔、天津から経営学を勉強しに来ていた中国の人が「日本は中国よりも共産主義的です」と断言していたし、読んだことはないけどダグラス・ケンリックという人は「The Success of Competitive-Communism in Japan」なんて本を書いている。

が、日本にも本格的な資本主義の波が押し寄せてきたみたいで、三井住友銀行が今月から導入する給与システムは、行員の月給から一部を積み立てておいて、ボーナス時に成果に応じて再配分する仕組みになっているそうだ。

入社5年目以上の総合職(約1万5千人)を対象に導入されるこのシステム、1人当たり最大3万円を毎月の「給与」から差し引いてファンドに積み立てるから、新システム導入に当たって会社側の人件費負担はゼロ。でも、スプーンで口元まで運ばれたアイスクリームを直前で他の人に食べられてしまうコンチキショーな気分を喚起できるわけだから、「は〜い、みなさん、毎月の給料を減らすかわりに頑張った人にはボーナスをはずみますよ〜っ」とやるより効果的なところがすごい。

実際の運用では部門長が配分額を決めるらしいから、蓋を開ければ日本的共産主義に沿った再配分が行われていた、てなことになるかも知れないけど、これが当初の意図通りに実施され、そして他の企業もこの「資本主義」をどしどし取り入れることになれば、そんな社会を生き抜く園児をはぐくむ幼稚園だって芋ほり大会に「勝ち組総取り」ルールを採用するかも知れない。

芋ほり特訓を施した息子(娘)によるハラダさんの意趣返しの日も近い。



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2003.10.16 (Thu)

「マトリックス」や「メメント」の [cinema]

脇を固めていたジョー・パントリアーノが、フィラデルフィアの新聞のインタビューでこんなことを言っている。

「どうしてこの役を演じたんですか?」なんてこと聞きたがる記者が多いけど、家のローンと子ども3人を抱えてたら、そんな贅沢なんか言ってられないんだ。

たしかにものすごい数の映画に出てるみたいだけど、これ、いかにもこの人が言いそうな台詞である。

同時多発テロ発生から9日間のブッシュ大統領を「スーパーマン以来のスーパーヒーローとして (by BBC)」描いたテレビドラマ、「DC911」でジョージ・ブッシュの役をやったティモシー・ボトムズは、BBCのインタビューで現政権を支持する立場を語っている。

が、彼の代表作、というかベトナム戦争以降のアメリカを代表する1971年の映画「ラスト・ショー」は、テキサスの田舎町を舞台に、古き良き時代が終わる地点から人生をはじめなければならない若者たちを描いた映画だった。風に舞い上がる砂埃に、人気のない通りを転がる枯れ草の玉、ホークス「赤い河」の上映を最後に取り壊される映画館や、古き良き時代を生きた人たち、そういったものを遠くを見るようなまなざしで眺めていたのがボトムズ演じる主人公のソニーなのだ。

もちろんこの役を演じたボトムズだって「贅沢なんか言ってらんな」かったのかも知れない。

でも、すでに彼は「That's My Bush」という2001年のテレビドラマでジョージ・ブッシュを演じている。「サウス・パーク」のマット・ストーンとトレイ・パーカーが脚本を書いているくらいだから、ここに描かれるブッシュ大統領は徹頭徹尾メタメタで、ローラ夫人から「今夜のディナーこと忘れないでね、そしてその後のことも」と念を押された大統領、その晩の演説でこんなことを国民に語りかける。

国民の皆さん、私は中絶をめぐって亀裂が生じているこの国を一つにまとめたいと思っています。中絶は深刻でパーソナルな問題です。私は今夜、国民の皆さんにお約束します。必ずやローラとディナーを共にすることを... え〜っと、つまりその、力のかぎりを尽くすということであります。グッドナイト。

ティモシー・ボトムズにとって、「家のローンと3人の子供」とザックバランに打ち明けられることの方が「贅沢」だったのかも知れない。



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2003.10.17 (Fri)

オブザーバー紙に掲載された [books]

過去300年間のベスト小説100というリストをながめているうちに、その昔、香港生まれの漱石研究者から受けた質問を思い出した。

日本を知らない外国人に、1冊だけ日本の小説を読んでもらうとしたら何を選ぶ?

その時に返事に窮しただけでなく、いまだに決定打の出せていない質問だけど、この問いかけを久しぶりに思い返してみると、ここには2つの違った質問が隠されていることに気がついた。

文字通り日本を代表する小説は何か?という質問の裏に、日本を知らない外国人が日本を理解する(あるいは先々理解していく)上でのベースとなる小説を1つ選ぶとしたら、それは何か?というもう1つの設問が隠されているのだ。

こう分けて考えれば話はちょっとだけ楽になる。

つまり、もっぱら後の方の意味で問いかけがなされたことに



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