更新日: 2003/10/09




2001.6.18 (Mon)

ジュゼッペ・トルナトーレ「マレーナ」 その1 [cinema]

「マレーナ」の冒頭に、日の光をルーペで集めて蟻を焼き殺すシーンがある。ちょっとだけ大人に近づいた気分の主人公レナートが「海岸デビュー」で仲間入りさせてもらう友達グループが、みんなで虫眼鏡ごしに蟻を見つめている。「こいつ死ぬのわかってんのかな?」とか何とか言いながら。

もちろん、虫を殺すという子どもたちの無邪気な残虐性は、ファシズムの気運に酔いしれるシチリアの人たち(そして、そのエネルギーが暴力的に発揮されることの予感)と、虫眼鏡によって集められる光=視線のパワーを象徴している。でも、このシーンを含む冒頭のシークエンス全体を考えてみると、それはもっと大きくて複雑な象徴として機能している。なにしろ、映画の後半で、冒頭のシークエンスがそっくりそのまま(基本的なカット割までぜんぶ一緒である)繰り返されるのだ。

映画の冒頭のシークエンスというのは、次の3つのエピソードから構成されるカットのまとまりだ。

・英仏への戦線布告&沸き立つ民衆 ・地面を這う蟻 ・自転車を買ってもらって大喜びのレナート

この3つのエピソードは、最初から同じ「場」で語られるわけじゃない。上機嫌で自転車を運転するレナートの向こう側に広がるのは、人のいない畑や海で、宣戦布告の報に湧く民衆とはハッキリと距離が置かれる。実際、彼の父親がムッソリーニに「心酔してはいない」ことがナレーションで告げられるのだ。そして、最初に映し出される蟻のカットは、シチリアの民衆ともレナートとも無縁な画像に見える。

でも、これがだんだん絡みあっていく。

地面を這う蟻は、肩を寄せ合って見つめる子どもたちの視線にさらされている。蟻は「集団」から見つめられる存在なのだ。で、この「集団」はシチリアの小さな街、カステルクトの人たちと重なり合う。というのも、集められた真っ白な陽の光が蟻を焼き殺した後、子どもたちはこんな言葉を口にするからだ。

「われは神の子、罪はなし」

ファシズムの歴史はまったく知らないので、ホントに当てずっぽうで言うんだけど、ファシスト党は軍部や地主、それに教会勢力からの支持をを基盤にしていたはず(みんな社会主義の台頭をおそれていたのだ)。でもって、そうした社会的な勢力がフツーの人の無意識的な攻撃性や残虐性を「正当な」名目の下に束ねることで、全体主義のコーフン状態を演出していたわけで、他愛のないはずの子どものイタズラにまで、宗教の言葉が入り込んでくる。ここでルーペをのぞき込んでいる子どもたちは「沸き立つ民衆」の側から蟻を見つめているのだ。

そういうわけで、虫眼鏡で集められる視線は、カステルクトの街の人たちの視線だということになって、それが凝縮され、暴力的なパワーとなって焼き殺すことになる蟻の位置に、やがてマレーナが立つことが暗示されることになる。子どもたちの最初の言葉、「こいつ死ぬのわかってんのかな?」が効いてくる。



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2001.6.19 (Tue)

ジュゼッペ・トルナトーレ「マレーナ」 その2 [cinema]

国家ファシスト党、それに心酔するカステルクトの(大)人たち、それから大人たちの影響を間接的に受ける子どもたちを一方に、その反対の極に蟻(=マレーナ)を置いた構図を作るシークエンスは、その両方から離れたところにレナートを配置する。手放し運転で気勢を上げている段階のレナートは、父の影響もあって参戦を喜ぶ街の人たちを醒めた眼でながめているし、蟻を焼き殺して遊ぶ子どもたちの仲間にも入っていない。それに、まだマレーナの存在を知らない。

だから、このシークエンスで位置付けられるレナートの眼は、街の人たちが抱く意味から距離を置いた「カメラ」のメタファーになる。

もっとも、すぐさまマレーナにヘロヘロになるのだから、客観的に「距離を置いた」眼ではぜんぜんないわけだけど、少なくとも歴史や政治の現実から離れて、美しいものをずっとながめていたいという映画の視線として機能することになる。映画を観ている間は「よく考えてみれば、レナートって要するにストーカーなんだよな」という冷静な判断が棚上げされることになるのは、このシークエンスがレナートの眼を「カメラ」位置に据えるからだと思う。

とはいえ、すでにレナートの(文字通り)足下にもファシスト政権下の現実が忍び寄ってきている。移動する彼の「眼」を支える自転車のフレームは(イタリアが侵略した&やがて連合軍がそこから北上してくる)アフリカ製、ギアは(宣戦布告した)フランス製、そしてチェーンはシチリア製という「カスタムメイド」。大人に近づくためのいろんな通過儀礼の象徴として使われるさまざまなモノ(長ズボン、床屋、ムッソリーニの頭、商館、etc.)の先がけとして現れる自転車からして、すでにイタリアの、というのかシチリアの政治的現実をハッキリクッキリ映し出していることになる。

というわけで、この冒頭のシークエンスのエピソードでは:

・興奮する群衆のエネルギー ・そのエネルギーが集められ、スケープゴートに向けられる予感 ・そうした現実を映し出す(今のところ)無垢な視線

が物語られ、これからはじまるマレーナの物語を象徴的に予告することになる。

で、いろいろと紆余曲折を経た後に、カステルクトの街を走り抜ける車→歓喜する群衆→街の全景→広場という具合に、映画はまるっきり同じシークエンスを繰り返す。でも、カットの中身がガラッと変わっている。走る車はアフリカ戦線から北上してきた連合軍のものだし、群衆は反ファシズムに歓喜している。マレーナは糾弾されるファシスト側の女になっていて、笑顔のレナートは連合軍の車に乗っている。

そして、マレーナが地面を這うことになる。蟻のように。

この間に何がどう変わって、後半のシークエンスがど〜のこ〜のと言い出すとキリがないのでやめるけど、ことほどさように、冒頭のシークエンスが後々まで尾を引くのであった。

と、書くと、この映画は最初から最後まで首尾一貫した表現の、とてもとてもいい映画に見えるかもしれない。でも、ファシスト党からも教会からも距離を置き、レナートの成長のプロセスで重要な役割を演ずる通過儀礼を最初から最後までコントロールしているのは彼の父なのだ。でも、その描き方がコミカルに誇張されすぎていて、本来は通奏低音のように表のメロディに響き合っているはずの父親の影が薄い点が、すごく不満だったりもするのだ。



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2001.6.20 (Wed)

ジュゼッペ・トルナトーレ「マレーナ」 その3 [cinema]

私の同級生に、でっかい目をした坂口くんというのがいて、若い頃のオーソン・ウェルズにやたらと似ている。

でも、そういった例外的な状況をのぞくと、たいていの男性は(そして、たぶん女性の何割かは、ひょっとすると坂口くんも)「第三の男」の有名なラストシーンでは、ジョセフ・コットンに感情移入する。で、プラター遊園地の隣の並木道の墓地を行き過ぎるアリダ・ヴァリに、ほんの少しでいいから、ジョセフ・コットンを見て欲しいな、と思う。

感情移入している最中の気持ちを正確に表現すると、ほんの少しでいいから、こっちを振り向いて欲しい、ということになる。

世界中でいろんな人がこの映画を観ていて、とても多くの人がそう思ってきた。で、この映画をイタリアで見て、やっぱりラストシーンで「こっちを振り向いて欲しい」と思い、映画監督になった挙げ句に、その願望を満たすべく映画を作ってしまった。

それが「マレーナ」だ。

マレーナを演じるモニカ・ベルッチは、アリダ・ヴァリの「冷たい美人」系統だし、映画の中でマレーナはアリダ・ヴァリのレコードを聴いているし、この映画には古い映画のオマージュがいっぱい出てくる(ただし「第三の男」のオマージュはなし。「第三の男」が作られたのは 1949 年だから)。

ぜんぶ状況証拠だって?

でも、動かしがたい証拠がある。「マレーナ」には、「第三の男」のラストシーンそっくりそのままのシークエンスが何度も出てくる。そして、それぞれのシークエンスが、筋立ての中でものすごい重要な役割を果たしているのだ。



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