更新日: 2003/10/09




2001.5.2 (Wed)

ウォン・カーウァイ「花様年華」 その1 [cinema]

安心感が増すほどに不安が募り、状況が不確定になればなるほど、ハッピーな結末への期待がふくらむ。

で、これをよくよく考えてみると、(映像と音で語る)映画であっても(文字で語る)小説であっても、(自分の行動で「語る」)実際の生活であっても、話はまったく同じことで、そこいらの事情を小説家のポール・オースターはこんな風に表現していたりする。

現在は過去に劣らず暗く、その神秘は未来にひそむ何ものにも匹敵する。世の中とはそういうものだ。一度に一歩ずつしか進まない。一つの言葉、そして次の言葉、という風に。...知識は緩慢にしかやって来ない。そしていよいよやって来たときには、しばしば大きな個人的犠牲を伴うのである。
(ポール・オースター「幽霊たち」、新潮文庫 pp.7-8)

そういうわけで、ウオン・カーウェイの映画も一度に一歩ずつしか進まない。一つのカット、そして次のカット、という風に。で、ラブ・ストーリーによって与えられる安堵感は緩慢にしかやって来ない。映画の時間が緩慢に進む間、過去に劣らず暗く、未来にひそむ何ものにも匹敵する現在の神秘を観客は体験することになる。

それは不安感だったり、じれったさだったり、(あくまで一時的な)安堵感や喜びだったりするけど、いよいよ結末がやって来たときには、大きな個人的犠牲を伴うことになる。「幽霊たち」の主人公ブルーが、物語という運命に翻弄されるように、観客もウオン・カーウェイのラブ・ストーリーに引きずり込まれてしまっていたことを知ることになる。

と、ここまで書いてきて、「花様年華」の内容にぜんぜん触れていなかったことに気が付いた。

1960年代の香港を舞台に、マルチェロ・マストロヤンニ+ソフィア・ローレン風にコテコテのラブ・ストーリーが新聞連載小説的に展開する。

主演のマギー・チャンがいい。といっても、私はマギー・チャンをジュリエット・ビノシュの次の次の次くらいに好きなので、見ているだけで幸せな気分になれるのだ。それから、何の映画を観ても佐田啓二(中井貴一のお父さんですね、といっても二人はまったく同じ顔だが)にしか見えないトニー・レオンが、いかにも1960年代っぽくてよろしい。



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2001.5.3 (Thu)

ウォン・カーウァイ「花様年華」 その2 [cinema]

安心感が増すほどに不安が募り、状況が不確定になればなるほど、ハッピーな結末への期待がふくらむ。

で、これをよくよく考えてみると、(映像と音で語る)映画であっても(文字で語る)小説であっても、(自分の行動で「語る」)実際の生活であっても、話はまったく同じことで、そこいらの事情を小説家のポール・オースターはこんな風に表現していたりする。

現在は過去に劣らず暗く、その神秘は未来にひそむ何ものにも匹敵する。世の中とはそういうものだ。一度に一歩ずつしか進まない。一つの言葉、そして次の言葉、という風に。...知識は緩慢にしかやって来ない。そしていよいよやって来たときには、しばしば大きな個人的犠牲を伴うのである。
(ポール・オースター「幽霊たち」、新潮文庫 pp.7-8)

そういうわけで、ウオン・カーウェイの映画も一度に一歩ずつしか進まない。一つのカット、そして次のカット、という風に。で、ラブ・ストーリーによって与えられる安堵感は緩慢にしかやって来ない。映画の時間が緩慢に進む間、過去に劣らず暗く、未来にひそむ何ものにも匹敵する現在の神秘を観客は体験することになる。

それは不安感だったり、じれったさだったり、(あくまで一時的な)安堵感や喜びだったりするけど、いよいよ結末がやって来たときには、大きな個人的犠牲を伴うことになる。「幽霊たち」の主人公ブルーが、物語という運命に翻弄されるように、観客もウオン・カーウェイのラブ・ストーリーに引きずり込まれてしまっていたことを知ることになる。

と、ここまで書いてきて、「花様年華」の内容にぜんぜん触れていなかったことに気が付いた。

1960年代の香港を舞台に、マルチェロ・マストロヤンニ+ソフィア・ローレン風にコテコテのラブ・ストーリーが新聞連載小説的に展開する。

主演のマギー・チャンがいい。といっても、私はマギー・チャンをジュリエット・ビノシュの次の次の次くらいに好きなので、見ているだけで幸せな気分になれるのだ。それから、何の映画を観ても佐田啓二(中井貴一のお父さんですね、といっても二人はまったく同じ顔だが)にしか見えないトニー・レオンが、いかにも1960年代っぽくてよろしい。



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