更新日: 2003/10/09




2001.5.16 (Wed)

上か下か(その1) [words]

渋谷は人が多すぎる。特に週末はなおさらだ。

という文章は、実のところ、厳密な正確さを欠いている。たしかに渋谷は人が多すぎる。でも、その「混雑」は、人が多すぎることだけでなく、それがてんでバラバラに歩いているところに原因がある。

そもそも道が細い。立ち止まって店先をのぞく人と、そこを通り過ぎる人、それにビラ配ってる人にプラスしてナンパしてる人もいる。

が、「混雑」を引き起こす一番大きな要因は、厚底のブーツ(この季節はサンダルか)を履いて、携帯電話で話をしながら歩いている女の子にある。厚底の靴が進路をフラつかせる上に、話に気をとられているから、人の流れを読んでいない。ぶつかりそうになると、こっちが悪いような目で見られる。蹴りを入れたくなるぞ。

東京都には迷惑防止条例という立派な法律があるのだから、石原都知事は一刻も早くこれを取り締まるべきだ。外に向かってNOと言うだけでなく、内にもその声を響かせることが必要なのである。

誰がために鐘は鳴る。それは汝のためなり。

とか何とかいった内容を、たとえばエコノミストに投書しようと思ったとする。そこで問題になるのは、「蹴りたくなる」んじゃなくて、「『蹴り』を入れたくなる」のニュアンスをどう英語にするか、というのもあるけど、ここで一番肝心なのは「厚底」をどう訳すか?という点だ。

「厚い」がthickで、「(靴)底」がsole、だから、thick soled shoes と書いたとする。でも、L.L. Beanのフレンチ・レインシューズあたりを想像されてしまったら、事実関係の要がまったく伝わらない。



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2001.5.17 (Thu)

上か下か(その1) [words]

そんな時に便利なサイトが

Jekai
http://www.jekai.org/

(たぶん)日英の翻訳家であるTom Gallyという人がはじめたサイト。外国の人が日本語の文章を英語に訳す時にひっかかりそうな言葉について、これを解説し、模範的な訳例を集められている。

ここに「厚底」がちゃんとエントリーされているのだ。この言葉は「very-thick-soled footwear」を指す、とある通り、「thickったって、並のthickじゃないのよ」というニュアンスを手短に伝えないといけない。

てなわけで、厚底ブーツ(サンダル)は、platform boots (sandals)と訳してある。

プラットホームである。これはもう下に「履く」ものではなく、上に「乗っかる」ものなのですね。「厚い」とか「すごく厚い」さえ超越しているのだ。進路がフラつくのも道理である。

が、プラットホームとなれば、列車を待ったり、海底油田を採掘するための足場だったり、その上で演説したりするものだったりするから、はたしてこれを「履いて歩いている」状況が想像してもらえるのか?という疑問が残る。何を隠そう、この言葉を解説したページにも、厚底サンダルを履いている写真が掲載されていたりして、ちょっと不安。

というわけで、エコノミストへの投書の際には、厚底ブーツ(サンダル)をplatform boots (sandals)と訳した上で、「厚底ブーツ(サンダル)の写真を掲載すること」という編集者もどきの注を加えないといけない。かくのごとく異文化コミュニケーションはムズカシイ。

厚底の靴は「ガングロや茶髪などの『世紀末(fin-de-siele)』ファッションとの関連で語られる場合が多い」と、2000年の6月に書かれたJekaiページは解説しているけど、これも注として入れた方がいいのかなあ?



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2001.5.19 (Sat)

スティーブン・ダルドリー「リトル・ダンサー」 その1 [cinema]

「リトル・ダンサー」は思い切りお子さま映画だと思っていて、実際に劇場には子供連れの観客が多く来ていたんだけど、映画を観てみると意外に骨太の内容だったんで驚いた。

ここでも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」的ジレンマをどう解決するかが(少なくとも一つの)問題になっている。安直なハッピーエンドはウソくさい、でも、救いがないのは耐えがたい。

映画がお子さま向けに見えるのは、主人公のビリー・エリオットを取り巻く大人にとっては救いがないけれど、11才の子供にとっては「救いがないと決まったわけではない」ワケで、この可能性に賭けることが大人(というのは、主にビリーの父とバレエ教師であるミス・ウィルキンソン)にとっての救いになる、という筋立てになっているからだ。最終的な行動(ロイヤル・バレエのオーディション)の主体はあくまで子供、でも、映画の見所の少なくとも一つは、それを取り巻く大人たちが、これをどう見て、そして支えていくかという点にある。

というわけで、サッチャー政権にヒドイ目に遭わされた炭坑街の地域活性化ムービーの系列に属するこの映画は、一方で「カラテ・キッド」や「スター・ウオーズ」の流れをくむ「子供の成長<->それを見守る大人」の構図を持った映画でもある。

こうした大人の役割は、ホメロスの「ユリシーズ」で父探しの旅に出かける息子の成長を見守るメントール(父ユリシーズの昔の友達)を起源とする「メンター」という名前で呼ばれる。「カラテ・キッド」でいえば空手のセンセイ(役者の名前忘れた)、「スター・ウオーズ」だったらオビ・ワン・ケノービ&ヨーダ、それから「ロッキー」だとバージェス・メレディス演ずるところのボクシングのコーチ。

上に挙げたような映画では、ほとんどハナからメンターがメンターとして登場してくるけれど、「リトル・ダンサー」の面白いところは、単に主人公のビリー・エリオットが成長するだけじゃなくて、廻りの大人もまた、「救いがないと決まったわけではない」可能性に賭けて、ビリーを見守るメンターに成長していくプロセスをきっちりと描いているところにある。



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2001.5.20 (Sun)

スティーブン・ダルドリー「リトル・ダンサー」 その2 [cinema]

というわけで、ジュリー・ウオルターズ演ずるバレエのウィルキンソン先生がとてもいい。最初は思い切り投げやりにバレエを教えていて、興味本位にビリーを見るようになり、だんだん彼の可能性を見いだしていく、というプロセスをとても巧く演じている。

それから父親役のゲアリー・ルイス。rough & toughな炭坑マンの親父が、同性愛的傾向も含めて息子の在りようを全面的に認めるようになる(=メンターに成長していく)くだりが、この映画の第二の山場。

「リトル・ダンサー」というくらいで、この映画はもちろんダンス映画でもある。主人公ビリーを演じるジェイミー・ベルのダンスがいいのはもちろんのこと。最初はやみくもに体を動かしている、といった感じのものから、だんだんとダンスの「形」になってくる。観ていてとても心地よい。

もっともこの面白さの半分以上は振付にあるはずで、自然な体の動きとダンスの境界線のこっち側から向こう側への移行がとてもなめらか。それから、ダンスするビリーのシークエンスに差し挟まれるダンスしてない人たちや風景のカット割がすごく巧くて、そうした画面までがちゃんと振付られているような気になる。

というわけで、「Shall we ダンス?」が動き出すカメラを描いた映画だったとしたら、「リトル・ダンサー」はダンスという形に収斂していく体の動きを描いた映画だと思う。で、やみくもに激しく動かしているビリーの体がダンスという形にまとまっていくプロセスが、バレエの先生であるミス・ウィルキンソン&ビリーの父親がメンターに成長していくプロセスとうまいことシンクロナイズする。

でも、バレエとは対極にあるようなビリーの激しいダンスの根っこにあるのが、80年代半ばにマーガレット・サッチャーに見限られた炭坑街のウラミツラミなわけで、お母さんに連れられてこの映画を観に来ていたお子さま方には、そこいらの事情がうまいこと伝わったのだろうか?



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