更新日: 2003/10/09




2001.8.1 (Wed)

君の瞳に乾杯(その1) [words]

「君の瞳に乾杯 (Here's looking' at you, kid.)」

ハンフリー・ボガードがイングリッド・バーグマンに語る言葉は、映画「カサブランカ」の名セリフということになってるけど、これって本当にそうなの?という話がある。

英語で乾杯する時に、ちょっとカッコを付けただけ話で、名セリフなんてもんじゃない。日本語の方は名訳だけど...

といった事情の細かい真偽わからないけど、「君の瞳に乾杯」という「記号」の深みとバリエーションという観点からみれば結論はあきらかだ。

それほどたいしたもんじゃない。

相手の目を見つめながら話をするのが一般的な状況下で、「君の瞳に」なんて言ったって、しょせんは「ガンバって見つめてる」以上の深い意味を持てるわけがないし、バリエーションったって、いろんなシチュエーションのいろんな「ガンバリ」にすぎない。「見つめ合う」こと自体がインフレを起こしている環境では、「見つめ合う」ことの記号はそれほどの価値を持ちえない。

そういうわけで、こんな状況を考えてみる。

フツーに話をする時には、誰も相手の目を見ない。お互いがぜんぜん違うところを見つめながら、会話のラリーがえんえんと、しかし円滑に続く。あるいは、話をしながら時おり相手の方を見ることはあるけど、話かけられている方は必ずしも相手の方向を見るわけではない。

時おり相手の方を見るのは、相手にふり向いてほしいというわけじゃなくて、むしろ相手に対する自分の気持ちをたしかめるようなもの。至近距離で話をしていれば、声の響きかたで相手が自分の方を向いたことはすぐに分かる。だから、その気持ちは相手にもちゃんと伝わる。そのレベルの親愛感をやりとりするにあたって、ことさらに見つめ合う必要はない。

で、そんな一般的な状況下で、「見つめ合う」事態が発生した場合の可能性を考えてみると:

▽たまたま目が合ってしまった
▽どちらかが「こっちを向け」と命令した
▽思わず相手を見てしまうような言葉を発した
▽相手がこっちを向いてくれるまで、じっと見続けた
▽話をしている双方が、「見つめ合う」形の話の落としどころを探していた
▽相手がこっちを向こうとしている気配を、もう一方も理解していて待ちかまえていた
・・・ まだまだ続く


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2001.8.2 (Thu)

君の瞳に乾杯(その2) [words]

見つめ「合う」というくらいだから、「見つめる」二人のタイミングの問題なわけで、見つめ「合う」ことが記号として意味する可能性(というのか深みというのか)はどんどん広がっていく。

相手を「見つめ」るべく顔を上げたが、戸惑ってしまって顔を伏せ、しかし最後にはやっぱり顔を上げて、「見つめ合った」などというプロセスまで含めて考えていくと、この意味の深みにさらなる陰影が加わることになる。

でもって、ここに「見つめ合う」事態が生じる個々のシチュエーションが絡んでくるわけだから、「見つめ合う」ことになる(あるいはそうならない)プロセスは、その都度の「事件」として、千変万化する深くてビミョーな意味を生み出すことになる。

と、そこまで考えてくると、今度は「見つめ合わない」ことも、同じようにいろんな意味を生み出す可能性を持ってくるのでは?

たとえば、片方がこれまでずっと秘密にしてきたことを語りはじめる。なのにもう一方はぜんぜん相手の目を見ないで、しずかに聞いている。あるいは、しばらく見つめ合った二人の一方が、とつぜん目をそらす。さらに、なかなか相手の目をまっすぐに見ることができなかった二人が見つめ合った後で、互いが同じ方向を見ることになる、とかね。

そういうわけなので、「見つめ合う」という事態がごく稀にしか発生しない状況が一般的な場合には、「見つめ合う」ことも「見つめ合わない」ことも、同じくらい重大な「事件」になりうる。

これを客観的にながめる立場にいる者にとっては、つねに目が離せない事態が立て続けて起きているわけで、まさに3分間毎のサスペンスなのだ。

そうそう、じつはこれ、映画の話。

トラン・アン・ユン監督(「青いパパイヤの香り」・「シクロ」)の「夏至」だ。離れてしまった、あるいは離れつつある男女3組の計6人の話。

「見つめ合う」ことと、「見つめ合わない」ことを繰り返しながら、登場人物が書いている小説のように、最後の最後になって二人が「出会う」ことになるプロセスを描いたこの映画は、そういうわけで、ハリウッドの映画には絶対にまねのできないスリルとサスペンスが盛りだくさん。

だまされたと思って映画館に走りましょう!



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