2001.6.21 (Thu)
▼ ジュゼッペ・トルナトーレ「マレーナ」 その4 [cinema]
自転車を買ってもらい、ちょっとだけ大人に近づいた気分のレナートがマレーナを見る。でも、まだショートパンツを履かされ、床屋では別席をあてがわれるレナートが、大人の世界に嫌悪感を抱きながらマレーナを見る。「美しくない」現実が、マレーナをも巻き込むことを目撃する直前に見る彼女の姿。それに、彼女を連れて街を歩くレナートが目にするマレーナ。
(実のところ、ちょっと記憶があいまいなんだけど)主人公レナートが成長するプロセスの節目ごとに、画面右手に立つレナートの脇をマレーナが通り過ぎて行く、という「第三の男」のラストシーンがそっくりそのまま繰り返される。で、「第三の男」のラストシーンそのままに、マレーナはこっちにぜんぜん目を向けない。
それに、アリダ・ヴァリを中心に見た「第三の男」のストーリーも、「マレーナ」に似ている。死んだ(はずの)オーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムを想い続け、ハリーが生きていて、しかも悪党だと分かって、で、本当に死んだ後でも、彼のことを想い続けて、ジョセフ・コットンに見向きもしないアリダ・ヴァリの役所(「やくどころ」です。ねんのため)は、そのまんまマレーナに受け継がれている。
そんなわけで、この映画の最後の最後で、モニカ・ベルッチがレナートの(ってことは、われわれの)方を振り向き、こっちを真正面に見つめる時、レナートとして彼女を見つめると同時に、ジョセフ・コットンに感情移入しながらアリダ・ヴァリを見つめ続けていたあの時を思い出し、積年のもどかしさが少しだけほぐれたような気になるのだ。
2001.6.25 (Mon)
▼ ミヨコノフデサバキ(その1) [words]
「清風会」だか何だか、とにかく書道教室のポスターが電車に貼ってあった。で、ポスターの下には教室の電話番号が書いてある。
ミヨコノフデサバキ
345 2−0389
書道教室だから「見よ、この筆さばき」という語呂合わせはすんなりと頭に入る。でも、何で「0」が「デ」なんだ?寒さで口も開けないときに「零」の発音に失敗すると「デ」に聞こえるとか。あるいは、「ゼロ」の「ゼ」を「デ」で充てているとか。「9」が「キ」であるのも解せない。
語呂合わせは難しいのだ。
語呂がたまたま合っちゃえばいい。スンナリと記憶に残った言葉が、ほぼそのまま数字に置き換わる。が、頑張って合わせた語呂となると、ムリヤリな語呂そのものを思い出すことが難しい。それに、思い出した言葉をさらに数字に変換するという余計なプロセスが必要になる。言葉と数字の変換ルールまで記憶してないといけないのだ。
そして、たいていの場合、語呂がたまたま合っちゃう、なんてことはない。だから、語呂そのものを頑張って記憶できたとしても、それを数字に置き直す厄介な作業でつまづいてしまうのだ。
だから私は自分の電話番号が覚えられない。
私はもともと数字の並びを記憶する能力がいちじるしく低い。しかしそもそも、めったなことでは自分の電話番号に電話をかけることなんてないのだから、たまたま語呂が合って自然に記憶できる場合を除くと、自分の電話番号をスパッと思い出せないのが自然なのだ。
買ったばかりの携帯の番号をスラスラ言える人は、だから、1)異常である、2)実は毎朝、番号を暗唱している、のどちらかである。これが私の持論。
この説に賛同してくれる人に出会ったことはない。しかしそれは、2)の事実を知られたくないだけなのだ。「えっ、自分の番号を覚えてない?信じられない」という表情の裏には、「だから私は毎朝(毎晩?あるいはその両方)、番号を暗唱しているのさ」というご満悦の表情が広がっているに違いない。
しかし、この精緻な理論の整合性を脅かす状況が存在する。シンガポールだ。
2001.6.26 (Tue)
▼ ミヨコノフデサバキ(その2) [words]
シンガポールは、と言うより中国系の人全般にいえることだと思うけど、誰も彼も数字に強い。
計算が速くて、損得勘定のカンがするどいというだけではなく、数字の並びを記憶するのも異常に速い。もちろん、それだけで「毎朝 and/or 毎晩、暗唱しているのだ」理論がホーカイの危機にひんするわけじゃない。でも、午前中にオフィスに引いた電話の番号が、午後一番には何の苦もなく暗唱されたりすると、ここには別の原理が働いているのではないかと考えざるを得ない。
そういうわけで、シンガポールを離れた後も、自分の電話番号を思い出そうとする(あるいは、思い出せないことがある)たびに、中国系の人の数字の暗記能力のナゾを思い起こすことになった。
で、語呂合わせを比較文化の観点から考えてみる。じつは中国系の人にとって、数字と言葉の語呂がうまいこと合っちゃう確率が高いのではないだろうか?
中国語では、一つの文字を一つのビートで発音する。縁起が良いとされる数字の「八」は、「パーッ」の1ビート。で、一つのビートで発音される音を、四つの違うイントネーションにのせると、四つの違った意味になる。そういうわけで、「パーッ」は「発」の意味にもなる。「発財」と言えば、財産がドカンと増えるという意味。だから「八」という数字がラッキーなイメージを喚起する。
「ミヨコノフデサバキ」な語呂合わせと違って、数字から言葉への変換プロセスがスンナリといくから、数字の並びが単にランダムな組合せではなく、はっきりとした意味を持つ言葉の流れになって記憶に残りやすいのでは?電話番号にしても銀行の口座番号にしても、覚えやすいように3桁とか4桁で区切られているから、この3桁や4桁の数字がうまいこと言葉に収まってしまえば、これを組み合わせてラクラク暗記できるはずだ。
なにしろ、あれだけ四文字熟語があるんだから、4桁の数字の並びの多くがピタッと収まる四文字熟語があってもおかしくない。それに、一行が五文字または七文字から成っている中国の詩は、二文字・三文字・四文字で意味を区切っているから、ジンコウにカイシャした三文字・四文字の組合せがものすごくたくさんある、ということになる。
だから、XXX−XXXXという電話番号が、たとえば「天際流 唯見長江(空の彼方にまで流れていく 長江を唯見ているだけだ)」とか、「不覚暁 百鬼夜行(夜中までオニのように働くと、朝起きるのがツライ)」といった具合に聞こえたり、「草木深 四面楚歌(人生は歩く影法師だ)」などと響いたりして、頭の中にかなり完結したイメージを結ぶことになるのだろう。いや、きっとそうなのだ。で、この種の数字=言葉の連携が日本語ではうまくいかない。
だから私は自分の電話番号が覚えられないのである。