更新日: 2003/10/09




2000.5.11 (Thu)

認知的不協和 その1 [words]

テレビのチャンネルを替えていたら、プラハ城が見えたので「おっ」とそこで止まると、ピアニストのウラジミール・アシュケナージが子供たちに音楽のことを教えている。

イギリス人の動物学者や中国の恐竜学者などなど、いろんな分野の「巨匠」たちが、子供たちを相手に授業をやる、という番組の音楽編だった。

スターリン体制下の思想統制と、その中で作曲活動をやったショスタコービッチの話から、アシュケナージ自身のチャイコフスキー・コンクール優勝にまつわるかなりキョーレツな裏話まで、かなり面白い内容なんだけど、何となく様子がおかしい。

最初は何がどうおかしいのか分からなかったけど、しばらく見ているうちに、アシュケナージの声に原因があることに気が付いた。愛川欽也が吹き替えているのだ。

愛川欽也が愛川欽也の声を発する分には問題ないんだけど、本人の姿が見えない状態で、その声が聞こえてくると、私の耳はこれを自動的に「いなかっぺ大将」のニャンコ先生に翻訳してしまう。だからスターリン政権下のショスタコービッチの葛藤の話であっても、ニャンコ先生の芸術論みたいに(しかし最初はこれがサブリミナルに)聞こえる。

どんなにバイオレントな状況でも、「ダーティ・ハリー」を山田康雄が吹き替えるとルパン三世フレーバーが抜けないのと同じ。心理学でいうところの認知的不協和だ。



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2000.5.12 (Fri)

認知的不協和 その2 [words]

でも、アシュケナージ=ニャンコ先生であって何が悪いんだ、と開き直ってみると、案外この組合せは悪くないのかも知れないと思えてきた。

アシュケナージは(指揮者として)東京で一回、(ピアニストとして)シンガポールで一回、演奏を聴いたことがあるけど、巨匠にあるまじき軽やかさ、というかヒョコヒョコっと舞台に登場して、演奏が終わるとペコッとお辞儀、ダスティン・ホフマン笑い(笑い顔が似ているのだ)を浮かべて会場を見渡すと、またヒョコヒョコっと舞台を後にする。共産主義政権下でヒドイ目にあった音楽家で、今は世界の「巨匠」である、という風情はぜんぜんない。

端正かつ軽やかに、コロコロとしたきれいな音のピアノも、猫っぽいと思ってみれば、そう聞こえなくもない。たとえモーツアルトを弾いていても、「どれだけ拷問を受けようとも、真実の道を外れることなかれ」みたいに重く厳しく(時に鬱陶しく)響いてしまうスヴァトスラフ・リヒターに比べてみると、もうこれは断然に猫である。

ようやくアシュケナージの映像とニャンコ先生の声が違和感なくシンクロできるようになる頃には番組も最終盤を迎えていた。チェコの民主化十周年コンサートのリハーサル。アシュケナージはベートーヴェンの「第九」終楽章、長い長いコーダのところを振っている。

最後の最後、「ダンッ!」とタクトを振りきるアシュケナージ。なかなか感動的。すると、やっぱりダスティン・ホフマン顔で笑った。きっとこの後ヒョコヒョコ歩いて式台を降りたはずだけど、これは残念ながらカットされたに違いない。



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2000.5.13 (Sat)

監督不明「アカプルコ・アルマ」 その1 [cinema]

アシュケナージの顔と愛川欽也の声との間の違和感に何とか折り合いをつけるのはそれほど難しいことではないけど、何をどうやっても映像と音との間に関連性が見いだせないこともある。これが長く続くと、かなりシュールな体験を強いられる。

去年の四月、ニューヨークに住む友達を訪ねた時に、熱を出して寝込んでしまった。することないから、ベッドに横になったまま、ボーダイなCATVのチャンネルをかたっぱしからながめていたら、「アカプルコ・アルマ」というドラマに出くわした。

「ビバリーヒルズ青春白書」のメキシコ版。でも、うんと予算が少なく、フィルムではなく、テレビカメラのセット撮影が多いので、見た目はただの昼メロといったところだ。

しかし、このドラマをやっていたのはロシア語チャンネルだったから、アカプルコのビーチでノーテンキに騒ぐ若者たちが全員ロシア語を話している。これが第一の違和感。

別にトロピカルな空騒ぎをロシア語でやってはやってはいけないということはないけど、こっちの頭にはドストエフスキーとかチェーホフの路線が刷り込まれているから、どうしても認知的不協和が起きてしまう。

登場人物は基本的に3パターンに分けられる:

1)「夢見るころ」をちょっと過ぎたオトナの男女。
2)「夢見るころ」まっただ中の男女(ダレカレかまわずナンパしようとするサングラス+ショーツ男とか、ダレカレかまわず付いていく女とか数名)。
3)「夢見るころ」まっただ中の男女を冷静に眺める男女(ビーチでサングラスとかサンダルとか売ってるおじさんとおばさん)。

で、この三種類X男女の組合せをロシア語に吹き替えているのは、男性一人と女性一人の計二人っきりなのだ。



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2000.5.14 (Sun)

監督不明「アカプルコ・アルマ」 その2 [cinema]

だから、人物パターン1)男女が岡田真澄 vs 鰐淵晴子チックにラブロマンス(古いな)するところも、パターン2)男女の「脳味噌まで日に焼けてます」的ナンパ合戦も、それを半分呆れて遠くから眺めて、(たぶん)人生の浮き沈みを感じさせる深いコトバを発しているパターン3)も、みんな同じ声なのである。

とてもとても難しいことだけど、仮にこの男女の声が、三種類の人物パターンのほぼ中間に位置するような性質のものだったら何とか事態を改善する余地がないわけではない。

が、もちろんそんなことあるわけない。

村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」の中に、「皮はぎボリス」という冷酷非情に残忍至極な拷問をやるロシア人将校が出てくる。「アカプルコ・アルマ」の男性群を吹き替えているのは、「皮はぎボリス」的に静かで抑揚のない声だ。

女性群もいっしょ。うんと前、モスクワの空港で見かけた、でっかく分厚い眼鏡をかけた入国係官の女性を思わせる声。これも静かで抑揚がない。

そういうわけで、「アカプルコ・アルマ」を見ているこちらの頭の中には、こんな映像+音声が展開することになる。

ショーツ姿の「皮はぎボリス」がサングラスを頭にのせて、やたらとニヤつきながら、しかしフラットな声で、ビーチのナンパを繰り広げる。ビキニ姿のモスクワ空港入国係官が、これもまたモノトーンな声で、しかしやたらと愛想よく、(たぶん)「うっそ〜」系列の言葉を発した挙げ句にヒョイヒョイ付いて行く。

浅黒い顔して小太りのビーチ物売りおじさんがこれを見てる。自白を強要する「皮はぎボリス」声で、(たぶん)「ったく、最近の若者はよ〜」とか何とか言うと、脇に立ってる肝っ玉母ちゃん系物売りおばさんが、パスポートをじっくり検分する入国係官風に、(たぶん)「あんただって若い頃はあんなだったじゃないか」と切り返す。

この日は一日中熱がひかなかった。



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2000.5.20 (Sat)

トニックな毎日 その1 [words]

ジョン・メデスキ(ピアノ)、ビリー・マーティン(ドラム)、クリス・ウッド(ベース)の3人組である MMW (Medeski Martin & Wood)の TONIC というアルバムを朝から晩まで聴いている。

ニューヨークはロウアー・イーストサイドにある座席数150席という小さなクラブ「TONIC」でのライブ。これがとんでもなくいい。

とても親密な空間で、しかし、ことジャズの演奏に関してはやたらと辛辣な聴衆(なにしろこのクラブはジョン・ゾーンとかが出演するらしい)を前に繰り広げられたライブセッションは、リラックスした緊張感に満ちあふれていて、私の日常(メンタルに緊迫してるはずなんだけど、キーボードを叩く手はじっと休んだまま)との間にうまいこと対照を形作って、モノトーンな毎日に刺激を与えてくれる。

まさしく TONIC だ。

そんなある日、突然スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を読みはじめたら、こんな一節に出くわした。ギャツビーに頼まれた主人公が、いとこのデイジーをお茶に招く。すっかり待ちくたびれた頃、ようやくデイジーが姿を見せる:

葉の落ちたライラックの木々にしたたる雨の中から、大きなオープンカーがあらわれて、こちらに向かって進んできた。車が止まり、首をかしげたデイジーが、ラベンダー色の三角帽子の下から僕を見つけると、あざやかな、しかしうっとりとした微笑みを浮かべた。

「ホントにここに住んでるのよね?」

降りしきる雨に響く、浮き立つような彼女の声に、僕の心は激しく波打った。しばらくの間、僕の耳はその音をもう一度最初から最後までたどりなおしていた。言葉を口にするのをすっかり忘れて。

例によって日本語のちゃんとした訳が手元にないから、とってもいい加減に訳してるけど、だいたいの雰囲気は分かるよね?



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