更新日: 2003/10/09




2000.5.21 (Sun)

トニックな毎日 その2 [words]

何でこれが「そんなある日」で TONIC につながるのかというと、この部分、原文はこんな風になってるのだ。

Under the dripping bare lilac-trees a large open car was coming up the drive. It stopped. Daisy's face, tipped sideways beneath a three-cornered lavender hat, looked out at me with a bright ecstatic smile.

'Is this absolutely where you live, my dearest one?'

The exhilarating ripple of her voice was a wild tonic in the rain. I had to follow the sound of it for a moment, up and down, with my ear alone, before any words came through.

デイジーの声が「a wild tonic in the rain」なんですね。いや〜、うまいもんだ。しかしぜんぜん日本語にならないぞ、これは。

というわけで、「うっ、ここにも TONIC が」と思ってしまう。

で、村上春樹の「ダンス、ダンス、ダンス」的に、つながっている、と赤字で考えはじめてみると、つい一月ほど前も TONIC に出くわしたことを思い出す。

百科事典のブリタニカは britannica.com で、便利な検索サービス(結果を後でメールで送ってくれるのだ)をやってる。ここでサラダについて調べたんだった。

グリーン・サラダは古くから強壮剤としての効能が知られていて、「クレソンを食べて知恵を付けよ」というギリシャの諺もあるくらい。最初期のサラダは緑野菜とハーブを塩で和えただけの素っ気ないものだった。こうした野菜は春になってようやく食べることができるわけで、冬の間の単調な食生活の後だから、メリハリが効いて強壮剤(TONIC)として働くという仕掛けになっておる。

ふむふむ。

すると、正月に食べる七草粥というのも、基本的にはサラダ的状況から生まれた食べ物なのか。しかし、七草粥がサラダと基本的発想を共有しているイメージを抱くのはむずかしいぞ。まして七草粥= TONIC などという図式はほとんどムリだ。

なんてことを考えたのであった。

間欠的に TONIC に出くわす毎日であっても、プラクティカルな強壮効果はあんまりないらしく、書いてる(はずの)論文も、 MMW も三舎を避けるインプロバイズ大会の様相を呈してきた。狂騒効果は大いにありというわけか(ため息)。

いま、MMW の面々は Seven Dead-lies のお見事な演奏を終えた。親密な聴衆の親密な拍手が聞こえる。



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2000.5.27 (Sat)

周防正行「Shall we ダンス?」 その1 [cinema]

「Shall we ダンス?」は、いつカメラが動くか(あるいはいつまで動かないか)というところを観る映画だと思った。でも、それはもう5年も前の話で、それ以降この映画を観てないから、その感想は的を得てるんだろうか?

そう思って、「Shall we ダンス?」をもう一度観ることにした。

ただし、今回観たやつは、アメリカで公開された英語字幕付きバージョン。あの「イングリッシュ・ペイシェント」のミラマックス配給版だから、パーティを抜け出して激しくセックスする役所広司と草刈民代、などというオリジナルには影も形もない場面が追加されていたら嫌だなあと思ったけど、さすがにそこまでアコギなことはやってない。

というわけで、カメラの動きに思い切り集中してこの映画を観てみると、カメラが動き出すまでのシークエンスが本当に見事に計算されている。お見事。

カメラというのは観衆の「目」なわけだから、座って観てる観衆の「目」を、右や左、上下やズーム・イン/アップという具合に動かすからには、それ以前に観衆の心情を動かしておく必要がある。

だから、カメラが動き出すまでのシークエンスはこんな風になる。静止した人物をとらえた静止したショット。次に、静止したショットの中に、動きのある映像が入る。それから、カメラが軽くパーン(カメラ位置は固定したまま、首だけを右左に振る)する。で、カメラは人物を追って動きはじめる。カメラの動きはぐんぐんスピードを増す。

このカメラワークの組み立てが、静止したサラリーマンの日常から一歩踏み出し、ダンス教室に足を踏み入れ、すこしずつ体を動かしはじめて、ステップがだんだん身に付いていって、ワルツからフォックストロットへと動きが大きく早くなっていく、というストーリーの流れと完全にシンクロナイズしてる。だから、映画を観てる人が体を動かしたくなる瞬間とカメラが動き出す瞬間がピタッと合致する仕組みだ。

うまいものだ。



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2000.5.28 (Sun)

周防正行「Shall we ダンス?」 その2 [cinema]

もっとも、ラベルの「ボレロ」みたいに一本調子でカメラに動きが加わるわけじゃなくて、ちょっと動き出して、勢いを付け始めた頃にまた元に戻り、またすこしずつ動き始めては、もう一度静止ショットに戻る、という具合にワルツの円運動みたいにそのシークエンスを繰り返して、ダンスホールのお別れパーティの場で、みんなが踊り出すラストシーンでその動きが最大化されるように案配されている。

そういう意図があってみれば、役所広司演じる経理課長がダンス教室のある駅に降り立つ瞬間が、その後の運動の開始を決定付ける瞬間だということがわかる。

なかなかホームに降り立とうとしない役所広司をエンエンと映し出すことで、一刻も早く「運動」が始まることを観衆に期待させてる。で、当初のそのイライラを、すこしずつ動きはじめるカメラで解消する段取りになっているわけだから、この部分でどれだけ観る側にフラストレーションを起こさせるかが、その後の映画の流れを決めることになる。「最初の一歩」が大切なのはダンスに限った話ではない。

ところが、なのである。

ミラマックス版では、けっこうあっさり役所広司がホームに降りたってしまうんですね。やっぱ、映画の冒頭でこんな風にジラされると、観衆は怒るか、寝るか、寝た後で怒ってしまう文化風土を反映して、こんな編集になっちゃうんだろうか?やっぱ、アコギである。

しかし、通勤の直線運動から真横に一歩踏み出したいんだけど、それがなかなか踏み出せないというフラストレーションは、観衆のものだけじゃなくて、経理課長の杉山のものでもあって、さらにそれは日本の社会全体のものだったりするわけだから、このフラストレーションを味わうことになしに、この映画の楽しさを味わうことはできないはず。

ここを大幅に切り詰めないとこの映画を楽しめないんだったら、最初から外国の映画なんか観る必要はないのである。



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