更新日: 2004/03/11




2003.12.12 (Fri)

バカの壁 [books]

という言葉を流行語大賞のニュースで知ったくらいだから、養老孟司の本は読んでいない。牛津村の本屋で立ち読みするわけにもいかないから、その本について書かれていることをネットで読んでみる。

賛否両論である。

目からウロコがぼろぼろ落ちたという人もいれば、バカバカしくて途中で読むのをやめたという人もいる。で、両者に共通しているのは、脳の仕組みのうんたらかんたら部分はよく分からないが...に続いて、「いい」とか「ひどい」とかの判断が下るところだ。

たぶんどちらも正しいのだと思う。

このところ、1970年代から1980年代にかけて大量に書かれた「日本人論」と呼ばれるところの一群の本、と、それについて書かれたいろいろな文章をまとめて読むことがあって、そこいらの事情が「バカの壁」的状況にそっくりなのだ。

「日本人論」には、文化人類学者がいうところの「タテ社会」や、精神分析学者の説く「甘え」、それに脳生理学者が主張する「日本人の脳」など、ま、とにかくありとあらゆる日本人「論」が含まれる。

が、そんなこんなの中身の詳細をスッパリ忘れて見てみると、そこいらの本に一貫しているのは、

  • 自然科学、社会科学、言語学、心理学などの分野で業績をあげた学者(あるいは政治家やビジネスマン)の本であって
  • その分野の理論を分かりやすいメタファーにして
  • 現代社会全体を説明しようとした本であって
  • 専門書ではないけど、娯楽書よりも格が上ですよという意味で新書で出版される本

という特徴だ。

というわけで、そこに展開される「理論」というのは、たとえ話やことわざに近い形に単純化されているのだから、目からウロコが落ちるくらいにいろんな事柄に適応できるだけの柔軟性を備えている。

専門分野の厳密な検証を要求しない前提で書かれているから、それらの本の「理由付け」部分は執筆者の印象の域を出ないわけで、それをバカバカしいと思いはじめたら、それから先を読む気力が湧いてくるわけがない。

が、この手の本でいちばん問題にすべきなのは、各専門分野の理論を社会全体に適用するというのは、どういう意味を持っているのか、という点だと思う。

そうした前提の結果、日本の社会に起きているいろんな出来事が、心理や言語や文化や脳など、すべて個人レベルに帰することができる「科学的な」要因から説明される。つまり、その類の本に描かれる「日本」なり「欧米」なり「世界」という社会で起きることはすべて、

  • 何から何まで個人の内部で起きる
  • そして個人の努力では変えることがほとんど不可能な
  • なおかつ各個人に共通な
  • 「科学的」または「文化的」反応の結果である

ように描かれる、ということだ。

が、社会、特に現代の社会というのは、単純に同じ個人を何人集めてみましたという具合に出来上がっているわけがなくて、種種雑多な個人の集まりが社会全体の複雑な構造を作りあげる途中には、人為的に取り決められたルールや制度という「つなぎ」を入れる必要がある。

だから、社会全体に適用されるルールや制度であるけれども、それを決める立場にあるのは特定の個人やグループだったりするような「政治」や「権力」の問題を一切排除して、いま起きているいろいろな出来事を、何から何まですべての個人に共通した要因で説明しようとすることは、「政治」とか「権力」とかに必然的に要求されるはずの責任の所在を曖昧にすることになると思う。

これまで日本というのは、単一の民族で構成されていて、同じ言語を話し、同じ文化を共有する、世界でも稀に見る国であって、誰もが「恥」の文化と「甘え」の心理を体現し、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」による「温情主義的経営」のもとで、企業は「タテ社会」を構成すると同時に、パーソナルなコミュニケーションの上では「間人主義」的な「和」の原理が支配してきた、てなことが主張されてきた。

つまり、日本社会の内部には「バカの壁」がない、と誰もが言い続けてきたわけだ。

そんな風に主張することで、たとえば海外から市場を開放しろと言われたら、「いやこれ、ルールや制度でこうなってんじゃなくて、個人レベルの文化の結果なんですわ」と言い逃れることができたわけだし、日本の中で構造的な利害の衝突が起きた場合でも、対立を表立てないのが「自然」で「当たり前」なのだと言い張れた時代があった。

なのに、ある時点から(って、個人的な「実証研究」によれば、それは97年の山一・北海道拓殖銀行破綻の後からだ)誰もが正反対のことを言いはじめて、それにしたがってルールや制度も変わりはじめた。

これ、個人の脳の中で起きている話じゃなくて、どんどん悪くなってきている実態を、隠し通せなくなるギリギリのところまで持っていった挙句に、象徴的な出来事なり事件なりをきっかけに正反対のことを主張しはじめるという、たとえそれが無意識にやったことであったとしても、基本的には911テロ後の米国の言動と同じ原理・原則にのっとった「戦略」の結果だと思う。

そんなこんなの後始末が、いまの日本人がいろんな局面で出くわす「バカの壁」なのだとすれば、それは各人の脳のメカニズムから解明すべき問題なんじゃなくて、日本の社会がいつごろからどれくらいヒドイ状態にあって、誰がどの時点からそういう状況に気がついていて、どんなタイミングで誰が何をしなければいけなかったのかをハッキリさせる必要があると思う。

でないと、ちょこっと状況がよくなれば、またしても「日本にはバカの壁は存在しない理論」本がバカ売れして、その2〜30年後には「バカの壁の焼き直し理論」がバカ売れして、しかしその間ずっと、社会的に弱い立場にいる人が一貫してバカをみる、てなことになりそうだからだ。

と、ものすごい久しぶりなので、ものすごい長編になってしまったぞ。日本人論関連の本を読んでいくうちに、何だかずんずん暗い気分になってきたので、日記を書く気力が出なかったわけね。

が、肝心の本を読まずにこんなことを書くのもナンなので、13日以降に「バカの壁」を本屋で立ち読みするぞと心に決める12月12日午前2時38分なのだった。



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2003.12.13 (Sat)

アリタリアで [etc]

ミラノ経由東京行き。

と思ったら乗り込んだ飛行機は JAL である。相互乗り入れ便なのでアリタリアの便名が付いていることに気が付いてなかったのだ。

で、機内に入ると、ビジネスクラスの客らしき恰幅のいい初老の男性が通路に立っていて、こちらの顔を見るやニッコリと笑顔を見せた。あの人はどういう人なんだろうと思っていたら、ナントその人はエコノミークラスのキャビン・アテンダントなのだった。

驚いたことに、もう一人のキャビン・アテンダントも「フルムーン旅行」のポスターに起用されそうなくらいに上品な感じの初老の女性である。

ゆったりとした動作に柔らかな言葉遣いが心地よい反面で、ホントのところは、こうした年齢の方には席を譲ったり、まあそういうわけにもいかないのなら、せめて機内食を満載したカートを押してあげないといけないのではあるまいか、などと考えてしまう。

で、もっとビックリなことに、食事が終わってしばらくすると、私の隣にいた30歳くらいの男性が急病になった。

という言い方は正確ではない。食事が終わってグ〜グ〜寝ていたところ、隣の席にやたらとキャビン・アテンダントの女性がやってくる。煩いなあと思いながらも引きつづき寝ていると、彼女は「お客様っ!」と声をあげ、隣の男性の頬をバシバシ叩きはじめたから、これはタダ事ではないのだとこちらが気づく(つまり目覚める)頃には、酸素吸入は始まるわ、「医者の方はいませんか」アナウンスは流れるわ、乗客が何人も立ち上がってこちらを眺めるわの大騒ぎである。

たしかにその男性の顔は真っ青で、頬をバシバシやられても、目は閉じられたまま、アームレストに置かれた腕も微動だにしない。意識を失っているのだ。

その男性は3人がけのシートの真ん中に座っていて、通路側の乗客はすでに他の場所に移動している。ので、「これを口元で押さえていて下さい」と酸素吸入のマスクを手渡された窓際席の私は、まるで急病になった男性の連れみたいに見えて、時節柄「まさかそれってテロがらみ?」的にハテナマーク満載の視線を一身に集めることになった。

が、なにしろこちらは起きぬけだから、意識を失った男性に、おじいさんの医者、そしてその向こうにいっぱい見えるモノ問いたげな眼差しと、ワケが分からないまま酸素吸入のマスクを口元に掲げている自分の腕が、まるでこちら側まで続いている夢の中の映像のように思えた。



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2003.12.14 (Sun)

時は [words]

直し専門の仕立て屋である。

というのなら、時を経て思い起こしたことがらというのは、その時以降の「直し」がずいぶん入っていることになって、だから、それがいつのことだったかを示す日付というのは、あくまで便宜的なものにすぎないということになる。

ので、今日から数日分の「日記」に記される日付も、あくまで12月14日から28日の間のどこか、というだけの話で、ひょっとすると日にちを分けて書かれることが同じ日の出来事だったのかもしれないし、書かれる出来事がホントにその通りの順番で起きたのかどうかも定かじゃない。



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