2003.7.23 (Wed)
▼ そういうわけで [etc]
12 日から東京にいて、この天気はいったい何なのだと毎日思っている。
9 日だったか 10 日だったか、部屋じゅうの窓を開け放し、柔らかく心地よい風に吹かれながら、ものすごくいい気分で昼寝した午後こそが真夏の夢みたいだ。
この天気はいったい何なのだと思うたびに、あの日の午後の感覚を思い起こそうと、顔に受けた風の感触や原っぱの上に広がる空、それから風にゆっくりなびく木々の緑を想像していたら、草原をわたる風の中に立ち、両腕を広げ目をとじた主人公がヘッドフォンの中に音を聴く、映画「春の日は過ぎゆく」のラストシーンを思い出した。
そんなまわりくどいことをしなくても、窓の外にジトジト降っている雨を主人公が眺めている映画の場面を思い出せばいいんだけど、こういう時はどうして「夢のカリフォルニア」的に今ここにないものを思い浮かべてしまうのだ。
と、頭の中にママス&パパスの唄が鳴り響くと、映画「恋する惑星」の長い長いエスカレーターの場面が蘇る。で、あのエスカレーターの下の小さな公園のベンチに座って、目の前の花壇と、そこにいる猫をぼんやり眺めているうちに雨が降りだして、これを聴きながら昼寝した時は気持ちよかったなあ、てなことを思い返す。
ふ〜っ、これで雨と昼寝と楽しかった気分が想像の中でつながった。
これで今年の東京のヘンな夏に立ち向かっていけそうである。
2003.7.25 (Fri)
▼ だいたい女ってのは [etc]
信じられない。
朝起きた時点ですでに待合せに遅れているというのに、そこから化粧をはじめる。で、1時間とか2時間とか、平気でそれにすごい時間をかける。ワケ分からんぞ。
女はこれに答えていわく
じゃあ、化粧も何もしないで行った方がいいの?
聞き耳を立てていたのではない。なにしろここは基本的にとても静かな場所で、テーブルの真向かいに座る2人はごく普通に話をしているだ。
2人がどんな風体なのかは分からない。真向かいにいるとは言っても、その間にはパーティションが立っているからで、それまでの会話から察するに、2人は図書館で社会学の試験勉強をやっているのだ。それが証拠に「化粧しない方がいいのか?」の問いかけに対する男の返事はこんな風だった。
いや、それは social change というもので... deviance とかも関係ないっけ?
女性の化粧が社会規範なのだったら、それをやらないことが逸脱になる、というロジックは正しい。でも、それは社会変動とは何の関わりもない。
化粧の結果は費やした時間には比例しない。
そう答えればいいのだ。
この質問に対して social change などという言葉を持ちだすようでは、試験勉強をやろうがやるまいが結果に大差はない。なのに、ちょっとはやっといた方がいいかなあ、と思ってしまう心持ちと同じ仕掛けが化粧にも働いているのである。