更新日: 2003/10/09




2000.8.15 (Tue)

何故 [words]

天野忠という詩人がいる。とてもいい詩を書く。

これは彼の「何故」という詩。すごくいい。

そのとき 遠い空に鈍いひびきがふるえ
みるまに轟然とくれあがり
そいつは
学校の屋根いっぱいのつばさとなった
中学生の読むリーダーの声がふっ消され
首を縮かめて みないきをのんだ
グァーッと莫大なひびきで いつものように
教室は揺れた

やがて
とぎれた生徒の言葉を補うために
先生はしずかな声で“why”と云われた。

(思潮社 現代詩文庫85 「天野忠詩集」 p.141)


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2000.8.16 (Wed)

ニン・イン「スケッチ・オブ・Peking 」 その1 [cinema]

「あの子を探して」と同じように素人を使い、ドキュメンタリー風に作られた中国の映画で、「スケッチ・オブ・Peking」というのをだいぶ前にシンガポールで観た。監督はニン・イン。「ラスト・エンペラー」で助監督をして認められ、92年には「北京好日」という映画を撮っている。95年の「スケッチ・オブ・Peking」が2作目(だと思う)。

またしてもストーリーはいたって簡単。狂犬病の犬に噛まれた人が「何とかしてくれ」と派出所にやってくる。あとは「あの犬を探して」の大騒ぎになる。おわり。

ところがこの映画、見終わった後に大きな謎が残った。何でこんなに反政府的な映画が海外で公開されるんだ?

この映画を観た95年という時期は、97年の香港返還を前に、中国共産党に対する批判的言辞がかなり強力に押さえ込まれていた頃で、93年のディエン・チュアンチュアン監督「青い凧」のカンヌ映画祭への参加が中国政府の圧力で取りやめになったりしていたのだ。

この映画のシンプルかつ(一見)ほのぼのとしたストーリーが描き出しているのは、たかが犬一匹といえども、社会の安寧秩序を乱すものに対しては国家権力を総動員して排除する、というメカニズム。映画で警官を「演じて」いるのが北京市の実際の警官だから、映画に出てくる警官たちのボクトツとした表情なり身振りなりが、権力メカニズムが作動した結果として、動いている(動かされてる)人間たちに見えてくる。

だから、犬探しの騒動が大きくなるにつれ、指令をくだす権力のレベルが上がって、指令を受ける警官の数が増えていく。「Shall we ダンス?」の動きの表現と違って、この権力レベル/警官数はストーリーの進展とともに、ひたすら単調に(しかし確実に)上昇/増加していくのだ。



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2000.8.17 (Thu)

ニン・イン「スケッチ・オブ・Peking 」 その2 [cinema]

そういうわけで、ものすごい数の警官が一匹の犬を追いかけて川べりを走り回るシークエンスは、滑稽に見えるけど、実はすごく怖い。バタバタと走りまくる警官は、本当のところ、犬を追いかけているんじゃなくて、追いかけろと指令を受けたものを追いかけているだけの話で、これが人間であっても何ら事態は変わらないからだ。

何でこの映画があの時期の検閲をパスしたんだ?

この前、TSUTAYAであっさりこの謎が解けてしまった。「スケッチ・オブ・Peking」のビデオ・パッケージに、こんな説明が書かれていたのだ。

北京の下町、徳勝門分署を舞台に繰り広げられる警官の日常を描いた物語。「北京好日」の女流監督ニン・インが、北京に生きる人々の愛すべき可笑しさとそこに生きる人々をユーモアたっぷりに描く傑作。

それはないと思うぞ。



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2000.8.18 (Fri)

冷やしラーメンの構造(その1) [words]

冷やしラーメンというのがある。

これが苦手だ。もっとも食べたことないから、正確に言うと、その存在をすんなりと受け入れるのが困難だ、ということになる。「冷やし」+「ラーメン」という組み合わせって、何となくあってはならないもののような気がするのだ。例えば、「気の滅入る」+「サンバ」とか、「アツアツの」+「スイカ」、あるいは「肌寒い」+「サウナ」みたいな感じ。

不思議なもので「ラーメンは温かくあるべし」と思ったことはないくせに、冷やしラーメンが続々と登場するようになると、「ラーメンは冷たかるべからず」→「ラーメンは温かくあるべし」とずっと思い続けてきたような気分になっている。自分では気が付いてなくても、食べ物を納めたメンタルマップの整理棚には、かなり画然とした仕切り板が入ってるらしい。

似たような話がある。

以前、仕事でつき合いのあった中国系マレー人のおじさんが「俺はどうも寿司が苦手だ」と言った。生魚がダメなのかなと思っていると、「寿司ってさ、ごはんを冷やしたもんだろ?それがどうもダメだ」というのが理由だった。「ごはん」=「温かくあるべし」な人にとって、たしかに寿司は「冷やしごはん」だ。そして、このおじさんにとって、「冷やした」+「ごはん」は、「さっぱりした」+「ドリアン」と同じくらい、あってはならないものだったんだろう。

そういえば、これも会社勤めをしていた頃に取っていた中国語のクラスの先生が、「中国でもおにぎり食べますか?」という質問に対して、「中国人は冷たいごはんは食べませんっ(きっぱり)」と答えた。「めっそうもない」とか、「何をたわけたことを申す」みたいな口調だった。



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2000.8.19 (Sat)

冷やしラーメンの構造(その2) [words]

してみると、中華系の食物整理棚システムでは、「温かい食べ物」棚に「ごはん」コーナーが仕切られていて(陰と陽は食べ物についてもあてはまる)、だから「冷たい」+「ごはん」は基本的にあってはならない組み合わせなのだ。

ところがいきなりここに大きな問題。

少なくとも中国系シンガポール人についていえば、圧倒的に寿司が好きな人が多い。なにしろ、意地悪な寿司マスター(ミスター・カンダ)のシゴキに耐え、立派な寿司職人になるべく頑張る青年を描いたスポ根ドラマをプライムタイムのテレビで(オール・シンガポリアン・キャストで)やってたくらいだ。

ふむ。

すると、ある種の中国系シンガポリアンの人は、「ごはん」とは別の区画、例えば「ファッショナブルな食事」コーナーに寿司を分類してる。だから中華系食物整理規則には抵触しない。でも、まずこれを「ごはん」としてとらえる人にとっては、「温かいたべもの>ごはん」規則が寿司のあり様と対立してしまうことになる。

そんなことを考えていたら、自分の中の食物整理規則では、「冷やしラーメン」は「温かいたべもの>麺」規則に抵触するけど、「冷やし中華」はそれとは別の棚に心地よく収まっている、ということに気が付いた。じゃ、「冷やし中華」は何に分類されてるんだ?

現在進行中の引っ越し作業が一段落したら、石毛直道の「文化麺類学ことはじめ」を読むことにしよう。(この本、どの箱に詰めたんだっけ...)



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2000.8.20 (Sun)

ウォン・カーウァイ「あの子を探して」 その1 [cinema]

チャン・イーモウ監督の新作には、アルモドバルの「オール・アバウト・マイ・マザー」以上に驚かされた。

「紅いコーリャン」、「黄色い大地」、「秋菊の物語」などの映画を撮ったカメラマン出身のチャン・イーモウという人は、芸達者な役者を使ってスタイリッシュな画面をビシッと決める、というイメージがあるけど、「あの子を探して」では、全員素人を使い、手持ちカメラでドキュメンタリー風に作られている。路線が180度違うのだ。ベネチア映画祭で2回グランプリを獲得することそのものがとってもすごいことだけど、まるっきり毛色の違う映画で2回なんだから驚きである。

ストーリーはいたって簡単。チョークにも事欠くような貧しい山村の学校に代用教師としてやってきた13歳の女の子が、街に出たまま行方不明になった生徒を探す。おわり。

でも、映画のいたる所にすっとぼけたユーモアがあふれていて、観ていてすごく楽しい気分になる。台詞回しや表情、立ち振る舞いなんかがものすごく自然なので、きっとカメラを回しっぱなしにして、後から編集したんだろうな、と考える一方で、それにしてはカット割りが妙にしっかりしてるのはヘンではないか、とも思ったりする。

後で調べてみると、撮り直せるところはすべて撮り直したらしい。ぜんぜんそんな風に見えない。すごいですねえ。



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