「スイスの聖者」と称される法学者・思想家、カール・ヒルティの「眠られぬ夜のために」は、聖書の言葉を引き、人はいかに生き、いかに自分を深めるかを説く。眠れぬ夜をいたずらに嘆くのではなく、それを自己反省のための時間として活用しようではないか。
もちろん、これから書くことはその本と何の関係もない。
締め切りなどが迫ってくると、眠れなくなってしまう。と、ジャニー君が言う。本当にぜんぜん眠れなくなるらしい。挙げ句のはてに、信号待ちしてる交差点で倒れ、病院に担ぎ込まれ、点滴を打ったりするハメになる。
でも、タイヘンだなあと思う半面で、うらやましいなあと思ってしまう。とうてい私にはそんなことできない。交差点で気を失う方じゃなくて、「眠れなくなる」ことができないのだ。
たとえば今週月曜日の夜。
三週間ぶりにイギリスから戻ってきた先生からの「呼び出し」を翌日午後に控え、提出するはずの論文はまだまだ形をなしていない。これから形になるメドも立ってない。しかも「呼び出し」を伝える先生からのfaxには、「この間に論文の体裁を整える十分な時間があったと思う」などと、消費者金融の取り立て風の脅し文句が書かれてた。
寝てる場合ではない。
しかし、それでも寝ちゃうんだな。それも、しっかり寝てしまう。8時間とか10時間とか。
「万が一」寝てしまった場合のために目覚まし時計を2つセットしても、ちゃんと2つのアラームを止めて、引き続き寝てしまっている。2つの目覚まし時計の片方は、聞くだに不愉快になるくらい大きな音でジリリリリと鳴る、昔ながらのゼンマイ時計。しかも、いったん立ち上がらないことにはアラームを止められないようにちょっと離れた位置に置いている。でも、目覚めるとちゃんとアラームが止まっている。ぜんぜん止めた記憶はない。
宇多田ヒカルに諸行無常と関西弁の響きを聞いた私の無意識は、一方で、「何があろうと寝るときは(しっかり)寝る」主義の信奉者でもあるらしい。
しかし、何でもかんでも無意識のせいにしてはいけない。
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