|
||||||||||
|
プラハ城の映像を見たら、(断じて映画ではなく)小説の「イギリス人の患者」を思い出した。 とはいえ、ハンガリー人が出てくるからプラハとはお隣さんというわけでもないし、不条理な世界を描いているからカフカでつながっているというわけでもない。何年か前、プラハへの旅行から戻ってくると、ジェットラグのせいで明け方に目が覚めた。で、何か読もうと思って手に取ったのがこの本。だから私にとっては、プラハといえば「イギリス人の患者」なのである。 ことの成り行きはそういうわけだけど、ジェットラグ的な状況下でこの本を読むというのは、かなり理想的な環境だったとおもう。いちおう目は覚めているんだけど、体は半分以上眠っていて、現実と幻覚の境目が曖昧な状態は、まさにこの小説が描こうとしている世界そのもののような気がする。 いちおう第二次大戦中にイタリアの村に暮らす4人の男女(男性3、女性1)が話の核になっているけど、隊戦前の話と、うんと昔の砂漠の民の話、それにヘロドトスが描くさらに大昔の話がどしどし絡んできて、だんだん「いつ・どこ」の話を読んでるのか分からなくなってくる。でも、そこは92年度ブッカー賞受賞作品、その「分からなさ」具合が計算し尽くされている。 いま読んでる話が「いつ・どこ」の話だから分からなくなってくる一方で、目の前に展開する話が、いろんな国のいろんな時代の話の中に滲み出してくるように思えてくる。次々と転換する場面のひとつひとつが、他の場面のメタファーとして働く仕掛けなのだ。もちろん、スリランカに生まれ、今はカナダに住むこの詩人は、純然たるメタファーも山ほど使うから、目の前に並ぶあらゆる言葉が、はっきりと指し示している対象とは別のものを意味しはじめる。男女の仲や、国と国との関係、時代の移りゆきなんていう相互に全然関わり合うはずのない対象が、どんどん繋がりはじめる。 小説の中に、砂漠を吹き抜けた風の話が出てくる。これがとってもいい。 いろんな種類の激しい風が吹くたびに、いろんな時代のいろんな人たちが翻弄されて、その度に、風に対していろんな名前が付けられた。で、これを描写する言葉そのものが、風そのものといった調子で書かれてる。丸谷才一風に言うと「ただただ舌を巻くしかない。」だから、本を読み進むうちに、いろんな国のいろんな時代に吹き荒れた風に翻弄された砂漠の民の一人になったみたいに、縦横無尽につながっては離れていく言葉の力に圧倒されるがまま、ということになってしまい、疲労困憊したんだか、ほんやりと心地よい気分でいるんだか分からなくなる。 まさしくジェットラグ的状況だ。 (つづく) |
|||||||||
|