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「清風会」だか何だか、とにかく書道教室のポスターが電車に貼ってあった。で、ポスターの下には教室の電話番号が書いてある。

ミヨコノフ デサバキ
345 2−0389

書道教室だから「見よ、この筆さばき」という語呂合わせはすんなりと頭に入る。でも、何で「0」が「デ」なんだ?寒さで口も開けないときに「零」の発音に失敗すると「デ」に聞こえるとか。あるいは、「ゼロ」の「ゼ」を「デ」で充てているとか。「9」が「キ」であるのも解せない。

語呂合わせは難しいのだ。

語呂がたまたま合っちゃえばいい。スンナリと記憶に残った言葉が、ほぼそのまま数字に置き換わる。が、頑張って合わせた語呂となると、ムリヤリな語呂そのものを思い出すことが難しい。それに、思い出した言葉をさらに数字に変換するという余計なプロセスが必要になる。言葉と数字の変換ルールまで記憶してないといけないのだ。

そして、たいていの場合、語呂がたまたま合っちゃう、なんてことはない。だから、語呂そのものを頑張って記憶できたとしても、それを数字に置き直す厄介な作業でつまづいてしまうのだ。

だから私は自分の電話番号が覚えられない。

私はもともと数字の並びを記憶する能力がいちじるしく低い。しかしそもそも、めったなことでは自分の電話番号に電話をかけることなんてないのだから、たまたま語呂が合って自然に記憶できる場合を除くと、自分の電話番号をスパッと思い出せないのが自然なのだ。

買ったばかりの携帯の番号をスラスラ言える人は、だから、1)異常である、2)実は毎朝、番号を暗唱している、のどちらかである。これが私の持論。

この説に賛同してくれる人に出会ったことはない。しかしそれは、2)の事実を知られたくないだけなのだ。「えっ、自分の番号を覚えてない?信じられない」という表情の裏には、「だから私は毎朝(毎晩?あるいはその両方)、番号を暗唱しているのさ」というご満悦の表情が広がっているに違いない。

しかし、この精緻な理論の整合性を脅かす状況が存在する。シンガポールだ。


(つづく)

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