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もちろん、多くのシンガポール人にとって、自分に最も近しいアイデンティティは「シンガポール人」ではなくて、「福建人」に「潮州人」、それから「マレー人」に「タミール人」だったりすることで、シンガポールなる抽象的な「国民性」を他人事として語ることができる、と考えることもできそうだ。

でも、それ以上に説得力を持ったセオリーがある。っていうか、私が勝手に思ってることがある。実はこれ、政府批判っぽく聞こえるのだ。

建国以来、シンガポールは反福祉国家を標榜し、自助努力を顕揚し、追いつけ追い越せを目標に掲げてきた。なにしろ建国してから約30年の間ず〜っと社会進化論者&優生学信奉者のリー・クワン・ユー首相だから、そこいらのモーレツ度は日本の比ではない。「貧乏人は麦を食え」の池田勇人が90年代まで首相であり続けてもかなわないと思う。

というわけで、倦まずたゆまず、機会収益を最大化し、同時に機会損失を最小化することがシンガポールの人のあるべき行動形態として顕彰されてきた。で、この行動形態を26個の細目にブレークダウンすると、他人を蹴散らしてでも自分の利益を最大化して、常にナンバー1を目指す、という「Mr. Kiasu の哲学」に近くなるような気がする。

そんなわけで、「キアスー」な国民性が自虐的に語られる時、これまであまりに厳しく自助努力を「奨励」してきた政府の方に「虐」の矛先が向けられているのではないかと思うのだ。


May 31, 2001

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