言葉と本と映画な毎日
日記
言葉の話
本の話
映画の話
いろいろな話


も〜驚いてしまった

10月から、さる業界団体がやってるWebサイト絡みの調査研究プロジェクトに参加させてもらってる。3種類の実験・研究からなるプロジェクトのコーディネーターの1人はその方面の研究で有名な大学教授。で、今回のプロジェクトは、そこの大学院生の修士論文のテーマでもある。

先週の全体会合では、それぞれのコーディネーターから実験・研究の進捗や今後の活動についての報告が行われたんだけど、この大学教授が率いるグループの研究については、一方的に教授が報告をやり、このテーマで修論を書こうという大学院生は、プロジェクトに必要となるコンピュータ・プログラム制作の進捗状況を説明していた。ぜんぜん大学院生の側のイニシアティブが感じられない。まるで下請けSOHOプログラマである。


これじゃダメだぞ


この7月に書き終えた自分の修論の場合、最初の半年間を、ひたすら担当教授を説得することに費やし、何回も書き直す過程が引き続きバトルの日々だったことを思い出しながら、この「下請け徒弟システム」を見ているとものすごく気分が悪くなった。

そうした「下請け徒弟システム」の話はさんざん人から聞かされてる。でも、映画「サラーム・ボンベイ!」を観ることと、実際に夜中の1時にボンベイ(現ムンバイ)のダウンタウンをタクシーで走ることが全く別の体験であるように、いざ現場に接してみると、とてもとても不快になってしまったのだ。

もちろん、この一例をもって全体を判断してはいけないんだけど、「そこはナントカ君に玉砕してもらって」などと笑いを取る教授の口振りを聞いていると、そうした関係が一般的なものであることを前提としているのが気持ち悪い。


論文の「核」は絶対に自分のものじゃないといけないのだ


別に創造性を伸ばす教育のあり方がうんたらかんたらと言うわけじゃなくて、あんだけタイヘンな作業をやるをやるからには、それに対するイニシアティブくらいは自分の側に確保しておかないと、ひたすらむなしい作業に終始してしまうんじゃないかと思う。

そうしたむなしい作業を文句を言わずに着実にこなすことが、研究者の資質のひとつとして求められているのかもしれないけど、そんなことが求められる作業はやりたくないのだ、私としては。

ひょっとすると、他人が決めたことを着実にこなす方が楽なのかなあ?違うと思うけどなあ。


November 26, 2000

言葉と本と映画な毎日
日記
言葉の話
本の話
映画の話
いろいろな話