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国家ファシスト党、それに心酔するカステルクトの(大)人たち、それから大人たちの影響を間接的に受ける子どもたちを一方に、その反対の極に蟻(=マレーナ)を置いた構図を作るシークエンスは、その両方から離れたところにレナートを配置する。手放し運転で気勢を上げている段階のレナートは、父の影響もあって参戦を喜ぶ街の人たちを醒めた眼でながめているし、蟻を焼き殺して遊ぶ子どもたちの仲間にも入っていない。それに、まだマレーナの存在を知らない。
だから、このシークエンスで位置付けられるレナートの眼は、街の人たちが抱く意味から距離を置いた「カメラ」のメタファーになる。
もっとも、すぐさまマレーナにヘロヘロになるのだから、客観的に「距離を置いた」眼ではぜんぜんないわけだけど、少なくとも歴史や政治の現実から離れて、美しいものをずっとながめていたいという映画の視線として機能することになる。映画を観ている間は「よく考えてみれば、レナートって要するにストーカーなんだよな」という冷静な判断が棚上げされることになるのは、このシークエンスがレナートの眼を「カメラ」位置に据えるからだと思う。
とはいえ、すでにレナートの(文字通り)足下にもファシスト政権下の現実が忍び寄ってきている。移動する彼の「眼」を支える自転車のフレームは(イタリアが侵略した&やがて連合軍がそこから北上してくる)アフリカ製、ギアは(宣戦布告した)フランス製、そしてチェーンはシチリア製という「カスタムメイド」。大人に近づくためのいろんな通過儀礼の象徴として使われるさまざまなモノ(長ズボン、床屋、ムッソリーニの頭、商館、etc.)の先がけとして現れる自転車からして、すでにイタリアの、というのかシチリアの政治的現実をハッキリクッキリ映し出していることになる。
というわけで、この冒頭のシークエンスのエピソードでは:
・興奮する群衆のエネルギー
・そのエネルギーが集められ、スケープゴートに向けられる予感
・そうした現実を映し出す(今のところ)無垢な視線
が物語られ、これからはじまるマレーナの物語を象徴的に予告することになる。
で、いろいろと紆余曲折を経た後に、カステルクトの街を走り抜ける車→歓喜する群衆→街の全景→広場という具合に、映画はまるっきり同じシークエンスを繰り返す。でも、カットの中身がガラッと変わっている。走る車はアフリカ戦線から北上してきた連合軍のものだし、群衆は反ファシズムに歓喜している。マレーナは糾弾されるファシスト側の女になっていて、笑顔のレナートは連合軍の車に乗っている。
そして、マレーナが地面を這うことになる。蟻のように。
この間に何がどう変わって、後半のシークエンスがど〜のこ〜のと言い出すとキリがないのでやめるけど、ことほどさように、冒頭のシークエンスが後々まで尾を引くのであった。
と、書くと、この映画は最初から最後まで首尾一貫した表現の、とてもとてもいい映画に見えるかもしれない。でも、ファシスト党からも教会からも距離を置き、レナートの成長のプロセスで重要な役割を演ずる通過儀礼を最初から最後までコントロールしているのは彼の父なのだ。でも、その描き方がコミカルに誇張されすぎていて、本来は通奏低音のように表のメロディに響き合っているはずの父親の影が薄い点が、すごく不満だったりもするのだ。
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