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「マレーナ」の冒頭に、日の光をルーペで集めて蟻を焼き殺すシーンがある。ちょっとだけ大人に近づいた気分の主人公レナートが「海岸デビュー」で仲間入りさせてもらう友達グループが、みんなで虫眼鏡ごしに蟻を見つめている。「こいつ死ぬのわかってんのかな?」とか何とか言いながら。

もちろん、虫を殺すという子どもたちの無邪気な残虐性は、ファシズムの気運に酔いしれるシチリアの人たち(そして、そのエネルギーが暴力的に発揮されることの予感)と、虫眼鏡によって集められる光=視線のパワーを象徴している。でも、このシーンを含む冒頭のシークエンス全体を考えてみると、それはもっと大きくて複雑な象徴として機能している。なにしろ、映画の後半で、冒頭のシークエンスがそっくりそのまま(基本的なカット割までぜんぶ一緒である)繰り返されるのだ。

映画の冒頭のシークエンスというのは、次の3つのエピソードから構成されるカットのまとまりだ。

・英仏への戦線布告&沸き立つ民衆
・地面を這う蟻
・自転車を買ってもらって大喜びのレナート

この3つのエピソードは、最初から同じ「場」で語られるわけじゃない。上機嫌で自転車を運転するレナートの向こう側に広がるのは、人のいない畑や海で、宣戦布告の報に湧く民衆とはハッキリと距離が置かれる。実際、彼の父親がムッソリーニに「心酔してはいない」ことがナレーションで告げられるのだ。そして、最初に映し出される蟻のカットは、シチリアの民衆ともレナートとも無縁な画像に見える。

でも、これがだんだん絡みあっていく。

地面を這う蟻は、肩を寄せ合って見つめる子どもたちの視線にさらされている。蟻は「集団」から見つめられる存在なのだ。で、この「集団」はシチリアの小さな街、カステルクトの人たちと重なり合う。というのも、集められた真っ白な陽の光が蟻を焼き殺した後、子どもたちはこんな言葉を口にするからだ。

「われは神の子、罪はなし」

ファシズムの歴史はまったく知らないので、ホントに当てずっぽうで言うんだけど、ファシスト党は軍部や地主、それに教会勢力からの支持をを基盤にしていたはず(みんな社会主義の台頭をおそれていたのだ)。でもって、そうした社会的な勢力がフツーの人の無意識的な攻撃性や残虐性を「正当な」名目の下に束ねることで、全体主義のコーフン状態を演出していたわけで、他愛のないはずの子どものイタズラにまで、宗教の言葉が入り込んでくる。ここでルーペをのぞき込んでいる子どもたちは「沸き立つ民衆」の側から蟻を見つめているのだ。

そういうわけで、虫眼鏡で集められる視線は、カステルクトの街の人たちの視線だということになって、それが凝縮され、暴力的なパワーとなって焼き殺すことになる蟻の位置に、やがてマレーナが立つことが暗示されることになる。子どもたちの最初の言葉、「こいつ死ぬのわかってんのかな?」が効いてくる。


(つづく)

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