「リトル・ダンサー」は思い切りお子さま映画だと思っていて、実際に劇場には子供連れの観客が多く来ていたんだけど、映画を観てみると意外に骨太の内容だったんで驚いた。
ここでも「ダンサー・イン・ザ・ダーク」的ジレンマをどう解決するかが(少なくとも一つの)問題になっている。安直なハッピーエンドはウソくさい、でも、救いがないのは耐えがたい。
映画がお子さま向けに見えるのは、主人公のビリー・エリオットを取り巻く大人にとっては救いがないけれど、11才の子供にとっては「救いがないと決まったわけではない」ワケで、この可能性に賭けることが大人(というのは、主にビリーの父とバレエ教師であるミス・ウィルキンソン)にとっての救いになる、という筋立てになっているからだ。最終的な行動(ロイヤル・バレエのオーディション)の主体はあくまで子供、でも、映画の見所の少なくとも一つは、それを取り巻く大人たちが、これをどう見て、そして支えていくかという点にある。
というわけで、サッチャー政権にヒドイ目に遭わされた炭坑街の地域活性化ムービーの系列に属するこの映画は、一方で「カラテ・キッド」や「スター・ウオーズ」の流れをくむ「子供の成長<->それを見守る大人」の構図を持った映画でもある。
こうした大人の役割は、ホメロスの「ユリシーズ」で父探しの旅に出かける息子の成長を見守るメントール(父ユリシーズの昔の友達)を起源とする「メンター」という名前で呼ばれる。「カラテ・キッド」でいえば空手のセンセイ(役者の名前忘れた)、「スター・ウオーズ」だったらオビ・ワン・ケノービ&ヨーダ、それから「ロッキー」だとバージェス・メレディス演ずるところのボクシングのコーチ。
上に挙げたような映画では、ほとんどハナからメンターがメンターとして登場してくるけれど、「リトル・ダンサー」の面白いところは、単に主人公のビリー・エリオットが成長するだけじゃなくて、廻りの大人もまた、「救いがないと決まったわけではない」可能性に賭けて、ビリーを見守るメンターに成長していくプロセスをきっちりと描いているところにある。
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