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シンガポールで3月に観たリュック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」もチーズバーガーな映画だ。でも、「シュリ」と違っているのは、最初からそうするつもりで作られたんじゃないフシがあること。

けっこう手間をかけたジャーマンステーキに微妙な味のチーズをのせようとしていると、「パンにはさんで食うんだぜ。もっとケチャップが要るだろう」と言って、ドド〜ッとケチャップかけ出す奴がいて、「あれ〜っ」と叫ぶベッソン監督、という図が目に浮かぶ。

この映画の最初のもくろみは、ジャンヌ・ダルクが得た「神からの啓示」が、単なる精神錯乱だったかも知れなくて、でも、本当のところはよく分からない...という「微妙な味」を出したかったんだと思う。でも、はっきりした味にしたい人たちが寄ってたかって、ドド〜ッとケチャップをかけてしまったのではないか、と勘ぐる私。

ケチャップに相当するのはダスティン・ホフマン。この映画を観てると、本当はこんなところにダスティン・ホフマンを出す予定なんか全然なかったんじゃないかと思う。


ジャンヌ・ダルクに啓示を与える少年の映像は映画の中で最も重要なモティーフの一つで、やがてエル・グレコが描くキリストそっくなイメージに変貌する。ところが、処刑を前にしたジャンヌ・ダルクの前に現れる段になると、このグレコ系キリストの顔が、どこをどう見てもぜんぜん似てない顔したダスティン・ホフマン化してしまうのだ。

この変貌に唖然としたのは私だけではなくて、最初はジャンヌ・ダルクだって気が付かない。しょうがないからダスティン・ホフマンも「この顔だったら分かる?」とか言いながら、マジシャンよろしく少年顔にしたり、グレコ顔にしてみせたりする。


で、彼はジャンヌが「啓示」として受け止めたものが、自分が抱いていた無意識の願望だった(に違いない)ということをやたらと丁寧にジャンヌに説明しはじめる。あげくの果てに、少女の時点にカットバックして、野原に落ちていた剣は、そこいらを歩いていた男が何気に捨てた可能性だってあるだろう、なんていう恐ろしく散文的なカットまで挿入される始末。

ダスティン・ホフマンはミラ・ジョボビッチ以外の役者と絡むこともないし、撮られる時はいつもアップ。群衆の中にいるところをカメラが引いて撮る、なんてこともない。

だから、ダスティン・ホフマンのカットはみんな「後付け」なんじゃないかと思う。公開前のスクリーニングの結果が良くなくて、「で、結局どっちなのよ?」などという意見がいっぱい出てきたから、急遽ダスティン・ホフマンを説明役に起用して、ケチャップ・フレーバーをたっぷり効かせた。


という舞台裏を勝手に想像しながら観ると楽しいかも知れない。でも、「そんな余計なこと考えたくない」という場合は、ダスティン・ホフマンが出てきた時点で映画が終わったことにして、ビデオをストップさせるという手もある。


May 11, 2000

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