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となれば、ビヨークの存在感の核になるのも、そうした俗/聖の橋渡し、ということになるはずだ。
異常に豊かな表情を持ちながら、常に不思議な雰囲気を醸し出すビヨークは、たしかにそうした役柄にピッタリではあるけれど、この映画で描かれるセルマという人物設定の力も大きいと思う。廻りの人間の優しさに助けられる場面も多いけど、それ以上に廻りの人間の罪業みたいなものをしっかり受け止める強さを持っている。
コツコツ貯めたお金を取り返すべく頑として譲らない時でも、常に相手に対する慈しみを忘れていないし、裁判になってメタメタなことを言われ続けても、それを恨むわけではなくて、黙って受けとする。でも、最後の最後、独房に入れられ、処刑が迫ってくると、初めて(そして最後に)弱音を吐く。
信奉者を集める一方で、自分に敵対する(あるいは、うまいこと利用しようとする)人間の罪業を黙って受け入れて、最後には死んでしまうことになる。で、最後の最後になって初めて弱音を吐く。この図式、キリストとまるっきり同じパターンではないか?女性だから、むしろ聖母マリアってところ?
と、ここまで考えて、胸のつかえが取れた。
フェリーニの「道」だ。セルマは、ジュリエッタ・マシーナ演ずるところのジェルソミーナなのだ。アンソニー・クインの大道芸人の辛い仕打ちを文句も言わずに受け入れて、しかし、宗教を冒涜することだけは頑として譲らないジェルソミーナを、現代の工場労働者として蘇らせたらセルマそのものだと思う。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ではセルマの宗教的側面はぜんぜん触れられないけど、息子の手術に対する超ガンコな姿勢、それに地上の現実を生き延びるための心の支えであるところのミュージカル、そうしたものが象徴しているのは、ジェルソミーナにとってのキリスト教と一緒だ。
っちゅうことで、セルマはジェルソミーナであって、それは共にマリアである、で決まり。
ふ〜、「胃もたれがスキッと消える」てのは、こういう感じなんだろうな。
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