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「The Cider House Rules」って、720ページもあるのだ。なにしろ主人公であるHomer Wellsが登場するのが95ページ目からで、題名になってるサイダーハウスに彼がようやく旅立つことになるのは、なんと250ページ以降である。

村上春樹の短編集「TVピープル」に入っている「眠り」では、主人公の女性が高校時代に読んだ「アンナ・カレーニナ」を読み返す。で、こんな感想を抱く:

考えてみればなんて奇妙な小説だろうと、私は思った。小説のヒロインであるアンナ・カレーニナが実に116ページまで一度も姿を見せないのだ。この時代の読者にとって、そういうのはとくに不自然なことではなかったのだろうか?
...
たぶんこの当時の人たちにはたっぷりと暇な時間があったのだろう。すくなくとも小説を読むような階層の人々にとっては。

だから、ジョン・アービングという作家はとっても時代錯誤なことをやってることになる。もう「小説を読むような階層」が存在しなくなった時代に、たっぷりと時間をかけないと読めない小説を書いて、しかも楽しく読ませようというのだから、その仕掛けとなるとすごいもので、ハチャメチャな人間たちがメタメタなことをやりまくる。しかしその合間に、こんな言葉がふいに飛び込んでくる:

Always, in the background of his mind, there was a newborn baby crying; even when the orphanage was as silent as the few, remaining, abondoned buildings of St. Cloud's - even when it was ghostly quiet - Wilbur Larrch heard babies crying. And they were not crying to be born, he knew; they were crying because they were born.

赤ん坊たちは、生まれてくるために泣いているのではなかった。ラーチの耳に響いてくるのは、生まれ落ちてしまうことに対する悲しみの声だった。

単語はすべて中学生レベルなのに、580ページ分の錯綜したストーリーが絡みついているから、意味がやたらと深い。なかなか気が抜けないのだ。

でも、小説もあと90ページを残すところとなった。これで今月中に映画が観ることができそう。やれやれ。


August 10, 2000

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