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実はこの映画のストーリー、「オデュッセイア」以来の古典的なパターンである「父を捜すべく旅立つ息子」に則っている。父親の過去が、息子にとっての未来(の可能性)として描き出されるというパターン。

これ「サイダー・ハウス・ルール」の基本構造だったりもする。

でも息子は旅立つ前に死んじゃうから、この映画ではそれを母親が代行することになる。だから、主人公のマヌエラにとって、息子の父親を捜すことは、自分が逃げてきた過去に直面して、それをたどり直すことでもある。一方、息子の観点からすれば、自分の知らない父と母の過去を探す旅なわけで、これ、実は観客の立場である。

ところで、マヌエラにとって、青春時代を過ごしたバルセロナを訪れることは、単純に過去の一時点に戻るということじゃない。

彼女が「欲望という名の電車」でブランチの妹(名前何だったっけ?)を演じた時には、まだ子供を持っていなかったから、その時点から見た「未来」を演じていたことになる。でも、その「未来」が現実のものとなると、子供を抱えて夫ハンターから逃れようとするブランチの妹みたいに、自分も夫のロラから離れていくことになる。マヌエラにとって、バルセロナの過去は、未来ー過去の入れ子構造になってるわけね。

実はこれとまったく同じ構造が、映画の冒頭に出てくる。臓器移植コーディネーターのマヌエラが、子供を失う母親を演じたすぐ後に、本当に子供を失う母親になってしなうところだ。だから、未来ー過去の入れ子構造は、「女を演ずること」と「女であること」の関係でもあったりするのだ。

そういうわけで、現実に子供を持ったけど、それを失った後で、再びブランチの妹をバルセロナで演じることになるマヌエラにとって、「女を演ずること」と「女であること」の間には何も境界が存在しなくなっている。マヌエラの位置は、ロラの子供を現実にみごもる尼僧ローサと、常に煙のような現実に生きている女優ウマとのちょうど中間にあるわけだ。

でも、それで話は終わらない。


(つづく)

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