「人生は歩く影法師...」のちゃんとした訳がなかったかなと思って本棚を探したら、新潮文庫から出ている吉田健一の「シェイクスピア」を見つけた。
我々の命は、歩き廻る影も同様のつまらない芸人で、
舞台の上で暫く反り身になったり、喚いたりした後に、
そのままどこかへ行ってしまうのだ。それは
白痴がして聞かせる話で、騒々しくて威勢がいいが、
何の意味もありはしないのだ。
なるほど。やはり格調が高い。しかも、ちゃんと原文に改行を合わせてある。(だから「どこかへ行ってしまうのだ。それは」で改行することになる。)さすが。
ちなみに彼はマクベスがダンカンを殺すべく寝室に入っていく場面を解説して、こんなことを書いている:
彼は国王になる野心から現在の国王を殺すことを思い立ったのであるが、実際に殺す時になって、彼はただその殺すことに向かって自分を鞭つのである。そうしなければ国王になれないからではなくて、国王になろうと決めた自分を殺すことは、彼にもできないからである。
さすがは吉田健一。何度読んでも結局どういうことなのかさっぱりわからない。でも、マクベスが何だかわけの分からない精神状態にあるということはしっかり伝わってくる。
吉田健一の文章は、とんでもなく見事に、かつ簡潔に要点をスパッと書いた文章の間に、ぼんやりと分かったようになるけど、何回読んでも最終的にはっきりしない文章が紛れ込んでるから面白い。
で、見事に簡潔に要点をスパッと書いてある吉田健一の文章:
[エリザベス朝の時代の]劇作家はこのようにして、同じ一つの作品で観衆を構成する雑多な分子の凡てを満足させる工夫をし、その限りで彼は全く自由に書くことができた。無神論も、戦慄すべき悪徳も、凡て劇的な効果の名に掛けて許容されると同時に、天分と、常識と、経験と、作者が有する一切が作品の制作に傾けられた。そしてその結果としての彼の作品は、観衆と同様に多面的な、豊穣な内容を持つことになったのであり、それが或る統一を示しているならば、この観衆も雑多ではない、或る一箇の多彩な存在だったのであって、ルネッサンスの英国人というものがそこに見られるのである。
これは「エリザベス時代の演劇」という章のいちばん最後の段落。お見事。
ポリフォニーという概念を使って、バフーチンというロシアの文芸評論家が、ドストエフスキーの小説が孕む混沌とした統一感をエンエンと論じた評論があるけど、それって要するにこういうことを観客なしにやったということなんだよな。しかもわずか一段落で書いてある。
それにしても、「国王になろうと決めた自分を殺すことは、彼にもできない」から、「殺すことに向かって自分を鞭つ」マクベス的状況って具体的にどういうことなんだろう?
大盛りを残すと追加料金を取られるから、途中からイヤになってきたけど、砂をかむ思いで最後まで食べるべく自分を鞭つ、の拡大強化版とか?まさかね。
|